Good Morning Revolution

─フェリックス・ガタリ

 

Louis XVI: C’est une révolte?

Le chambellan: Non, c’est une révolution!

 

 Goooooood morning revolution!

 「よばれてとびでてジャジャジャジャ〜ン」。「呼んだ?ん?お呼びでない…?こりゃまた、失礼しました」。ベーラ・バルトーク(Bartók Béla Viktor János)の組曲『ミクロコスモス(Mikrokosomos)』の中の「自由な変奏曲」に乗せてお送りするお呼びでなくても放送しちゃう自由ラジオ局「カオスモーズ(Chaosmos)」。カムカムエブリバディー、どこにでも浸透しちゃうよ。今日はこの周波数だけど、明日はどうかわからない。毎日「やる気MANMAN」です。もっとも、明日があるのかね?

 さて、偉大なハンガリーの作曲家はこの曲を初演したときに、確か、こう言っている。うろ覚えなんで、違うとこがあるかもしんない。それは許してね。「私は、五月七日のコンサートで、『ミクロコスモス』から数曲演奏したが、それは重要なことではなかった。私にとって、素晴らしい体験は、リハーサルにおいて、沢山の子どもたちが、私の小さい子どもたちのための合唱曲を歌うのを初めて聴いたことだった。私は、小さい子どもたちの楽しげな声を決して忘れることはないだろう。とりわけ地方からきた子どもたちのなんのわざとらしさもない声は、農夫たちの歌い方の尊厳ある響きを思い出させた」。まったく泣かせます。こういう大人になりたいもんです。こんなこと言われたことある?

 今日はこのマジック・マジャール──素晴らしいサッカー・チームだったねえ、覚えてる?──をこよなく愛したフェリックス・ガタリに捧げる番組「非平衡革命」をお送りしよう。そう、La Révolution de Non-équilibreだ。なんで今日?今日は何の日?聴いてるうちに、わかるよ。でも、何か言い忘れちゃったりなんだったりして。

 ポスト構造主義がモードだった時代が去り、その担い手の多くが故人となった今、むしろ、その画期的な意義が明らかになっているんです。これが。”Ten Little Indians And Then Were None”.かの哲学者たちには、その言及は極めて限定的であるとしても、非線形をいかにとり入れるべきかという問題意識が見られる。非線形って知ってる?Nonlinear、線形じゃないってことです。知識は大切だよ。Knowledge is power. Yeah, Power to the People. Power to the People. Power to the People. Power to the People, right on

 じゃあ、ちょっと考えてもらうために、時間をあげよう。まずは一曲目。ニッケルバック(Nickelback)の『ハウ・ユー・リマインド・ミー(How You Remind Me)』。なんで、ニッケルバックかって?それはカナダ出身だから。英語とフランス語の国、Oh Canada!

 

Never made it as a wise man

I couldn't cut it as a poor man stealin'

Tired of living like a blind man

I'm sick of sight without a sense of feeling

And this is how you remind me

 

This is how you remind me of what I really am

This is how you remind me of what I really am

 

It's not like you to say sorry

I was waitin' on a different story

This time I'm mistaken for handing you a heart worth breakin'

And I've been wrong, I've been down

Into the bottom of every bottle

These five words in my head scream,

"Are we having fun yet?"

 

Yet? Yet? Yet? No, no.

Yet? Yet? Yet? No, no.

 

It's not like you didn't know that

I said I love you and I swear I still do

It must have been so bad

Cuz living with me must have

damn near killed you

And this is how you remind me of what I really am

This is how you remind me of what I really am

 

It's not like you to say sorry

I was waitin' on a different story

This time I'm mistaken for handing you a heart worth breakin'

And I've been wrong, I've been down

Into the bottom of every bottle

These five words in my head scream,

"Are we having fun yet?"

 

Yet? Yet? Yet? No, no.

Yet? Yet? Yet? No, no.

Yet? Yet? Yet? No, no.

Yet? Yet? Yet? No, no.

 

Never made it as a wise man

I couldn't cut it as a poor man stealin'

And this is how you remind me

This is how you remind me

 

This is how you remind me of what I really am

This is how you remind me of what I really am

 

It's not like you to say sorry

I was waitin' on a different story

This time I'm mistaken for handing you a heart worth breakin'

And I've been wrong, I've been down

Into the bottom of every bottle

These five words in my head scream,

"Are we having fun yet?"

 

Yet? Yet? Are we having fun yet?

Yet? Yet? Are we having fun yet?

Yet? Yet? Are we having fun yet?

(Five words in my head)

Yet? Yet? Are we having fun yet?

(Five words in my head)

 

 残念だけど、フェリックスは彼らのサウンドを聞く前に亡くなっているんですね。フェリックスと呼んでます。何か他人のような気がしなくて。心の師と言うか何と言うか。How do you remind me?やっぱ、時代はオルタネイティブです。それをフェリックスは分子革命って概念で語っているんですね。詳しくは後でね。一九八〇年前後、最近の「帝国(Empire)」同様、彼らの言説に由来した「スキゾ」=「パラノ」の二項対立があまりにも安易な比喩として現代社会分析の分析に使われていたけども、到来してきたのはスキゾ的社会じゃあない。非線形的社会。

 その二項対立は、当時、フェリックスとジル・ドゥルーズとの共著『アンチ・オイディプス』に由来すると考えられている。欲望はさまざまな出来事を生産する機械であり、無意識は「欲望する機械(machine désirante)」の組み立てからなる工場。この「機械」という概念は拡大して使われ、欲望する機械のほか、社会機械や技術機械とかってのもあったけど、その間には特に違いはないんですね。伝統的に、西洋形而上学では欠如したものを獲得しようとするのが欲望の根本特性と見なしてきたのであって、その点では、ジークムント・フロイトも例外じゃない。女の子はちんちんのない男の子ってわけ。金太守って、金太守って♪そうウィーンの精神分析医が言ったかどうかじゃなくて、そんなふうに解釈されてきたってことだからね。勘違いしないように。放送なんかやってるとさ、ほんの一つの単語だけ頭に残っちゃってね、全体の流れをまったく無視して、抗議してくる義憤にかられた正義漢がいるけど、そういう見切り発車はやめてよね。交通事故の原因だし。無意識の欲望により生産されるのは、おちんちんみたいに、実在に欠けている幻想。これに対して、DG(浅田彰京都学教授がこう呼んでます)は実在的な生産過程を欲望に認める。こうして欲望は、実際に、個人の芸術活動から社会の歴史まで、政治だろうと経済だろうと美学だろうと、多様性を形成する過程として肯定されるわけ。欲望する機械は、家族や国家の中に閉ざされる以前に、哲学史上の巨匠ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル教授の『法哲学』に反して、すでに社会や技術の歴史と密接な関連の中にある。資本主義の時代に突入すると、欲望生産はそのスキゾな姿を露出していく。病気の比喩ってあんまりいいもんじゃないです。差別助長もそうだけど、イメージに寄りかかってるとこもあるから。そんで、DGは無意識の欲望を顕在化させる作業をスキゾ分析、ちょっと発音には自信があるよ、schizo-analyseと呼ぶ。フランソワーズ・モレシャンもびっくり。芸術は、当然、欲望を生産する機械。近代資本主義社会は一種のレース。誰もが相手より少しでも早く、少しでも先へ進もうと必死になってる。その蓄積・増殖の拡大再生産を通じて、これが「パラノ社会」ってことなんだけど、今の世界は進歩と成長を成し遂げてきたとしても、もう違うんじゃないの、これからはスキゾよ、スキゾってニューアカが主張して、流行したというのが一九八〇年代前半。イラストレーターの渡辺和博の『金魂巻』がベストセラーになって、(金)と(ビ)が流行語。そういや、あれ、にっかつから映画化されたんだよなあ。知ってる?知らねえよなあ。そんな歳じゃないだろうしさ。当たり前田のクラッカーってとこか。

 そこ、ちゃんと笑う!何、その反応!ここ、笑うポイント!笑って、笑って六〇分。どうもすいません。本人が一番恥ずかしいんだから。ね、わかってやって。

 プラトン以来の西洋形而上学は、ソクラテスのお弟子さんがイデアの比喩に三角形を使っているように、数学を基礎付けにしてきたけど、それは線形数学。ところが、蓄積・増殖してきた線形数学の拡大再生産は非線形現象にはお手上げ。二〇〇四年一〇月九日膵臓癌で亡くなったジャック・デリダ(Jacques Derrida)の脱構築は差分方程式に譬えられる。彼は、その手法を通じて、西洋形而上学が前提にすると同時に、それを正当化してきた線形的認識に潜む非線形性を顕在化させたんですね。Monsieur Déconstructionの企て以上に、大胆不敵に非線形性に取り組んでいたのが、一九九二年八月二九日、心臓発作で亡くなったフェリックス・ガタリ氏。彼は非平衡から非線形にとり組んでいる。覚えてる? 何、猫のことかって?それはフェデックス!お約束だよーん。ほら、サントリーのダルマのコマーシャルに出てた骨太で、繊細な感じのメガネの人、そう、ちょっと鈴木ヒロミツに似てる人。それでも、やっぱり、考えてしまう。ああ、この気だるさは、なんだろうか♪

 線形ってのは、手っとり早く言っちゃうと、要素還元主義、非線形は非要素還元主義。これじゃあ、乱暴すぎるか。『乱暴者(The Wild One)』のジョニーだって、マーロン・ブランドが演じてた奴ね、もっと丁寧だ。しかし、あのときのマーロン・ブランドの迫力ときたら、もう、Woo!数量的な構成や変化が加法性や比例関係に基づいてんのが線形システム、そうでないものが非線形のシステム。まだわかんない?非線形事態の定義は難しいんだ。線形じゃないものとしか言いようがないから。結構、サイエンスにはそういうとこがあって、例えば、「有機物って何?」と尋ねられても、「無機物じゃないもの」としか答えられない。線形というのは、関数の変数に具体的な数値を代入して数値計算を行うと、その値が決定できる。それだと、成分を重ねあわせたものとして要素を表わすことができるから、完成度の高い体系的な研究が、線形代数学や線形微分方程式の理論などによって、されてきたんだけど、非線形のシステムは、微分方程式を代表とする数学的な解析が難しく、そういったものの存在は多少なりとも知られてきても、ほとんど手つかずの状態。二〇世紀の後半までね。その非線形の研究に道を開いたのはコンピューターの開発。マルティン・ハイデガーに従って、「答えを出すことではなく、問いを発することこそ重要」という意見がポスト構造主義の時代にも支配的だったけど、それは時代錯誤ですね。アンリ・ポアンカレ的、すなわち一九世紀的発想だもの。だおたい、問いのほとんどは無意味。売れない文芸批評家の佐藤ザ・チョーカー清文が江戸川の土手に座って「なんで俺は運が悪いんだ?」みたいに、自問自答すべきものか、タンパベイ・デビルレイズのデーモン・ホリンズ(Damon Hollins)が全速力で前進しながらライト・フライをバンザイしたのを見たルー・ピネラ監督の「あいつは馬鹿じゃないのか?」のような、レトリカル・クエスチョン。問いは自己の中心性と他者の同質性の確認。これが国民国家=産業資本主義に基づく自己。二〇世紀後半に本格化したコンピューターは解けない問題でも数値計算をして、ヴィジュアル化できる。そのシミュレーションが非線形研究を可能にしたってわけ。問いでも、答えでもない。アルゴリズムが重要なんです。でも、それさえ、今じゃ、あやしい。ガチョーン!

 自然的であろうと人工的であろうと、現象のほとんどは、実は、非線形に属している。しかも、それを利用してきた歴史がある。人類って賢いなあ。別に厄介なものだったわけじゃない。冥王星の軌道や雪崩、化学反応、ニューロン、脳波、溶鉱炉、変圧器、多重振り子、濁流、インフルエンザの患者数の変動、株式市場の暴落、耕地の植物群落、希少生物の絶滅、希少言語の消滅、レーザー・システムあげればきりがない。天気がなかなか当てられないのは、気象予報士ガ無能だからじゃないんです。だから、予報が外れたからといって、森田さんを責めちゃいけません。まあ、気持ちはわかるけど。要素間の関係が線形であれば、各要素の独立性と均質性が保たれていると考えられるから、重ね合わせの原理で理解できる。パチンコ玉はどれでも同じパチンコ玉じゃねえかってこと。でも、相互作用が非線形になっていると、要素間で特定の関係が強まり、全体が一つの秩序を持ってまとまっていったり、逆に不安定性が「本気でドンドン」って具合で増幅されてしまったりすることも起こる。要素間の関係が特定の傾向を強めあって、全体が自発的に一つの秩序にまとまってゆくのを「自己組織性(Self-Organization)」って言う。これは、今日の番組で、しょっちゅう触れるから忘れないでね。少しずつリズムの違う振動が非線形の相互作用があると、全体が同期したリズムに統合されてゆくことがある。振動の「引き込み現象(Synchronization Phenomena)」と呼ばれ、非線形のシステムに見られる自己組織性の一例。With one breath, with one flow, You will know synchronicity♪これは、とにかく多くの現象が自己組織性から研究されていて、非線形の数理モデルで説明されるものも少なくない。ニューヨーク・メッツのペドロ・マルティネスがテンポよく好投していると、対戦相手のシカゴ・カブスのカルロス・ザンブラーノも引き込まれていいピッチングをするようなもの。「うまいぞ、へたくそ」。非線形の相互作用が、逆に、初期値敏感性のため、不安定性を増幅してしまう場合もある。ほら、パチンコやってるときに、ハンドルの隙間にマッチ棒を挿して固定しているのに、玉があっちこっちに散らばるでしょ?あれあれ。微妙な違いがそれぞれのパチンコ玉にあるから、あんな風になっちゃう。どんなに高い精度で最初の状態を観測しても、ほんのわずかな誤差が時間と共に増幅されるから、ある時間より先の未来については予測が不可能になってしまう。これがカオス。「決定論か確率論か」や「必然か偶然か」なんて、伝統的な二項対立は非線形では無意味。カオスは短期的にはバルーフ・スピノザ、長期的にはゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツという現象。ライプニッツか、スピノザか?Either Or?いや、どっちも。んー、ウィリアム・シェークスピアの『お気に召すまま(As You Like It)』のセリフを思い出しちゃいますねえ。”Time travels in diverse paces with diverse persons”.

 伝統的な主観=客観の二項対立も同じ状況に直面している。フェリックスも含めて、ポスト構造主義の哲学者は主観の哲学を提起しています。この主観はニュートン力学的な主観とは違って、均質じゃない。それぞれによって違う。ムラがある。つまり、一にもそれぞれ特有な幅があって、それを二つ足しても、二にはならない。いや、その二も幅があるから、他の二と違ったりするって複雑なことになっちゃうんです。ニュートン力学に基づく要素還元主義的な近代哲学は主観の均質性を前提にしている。線形において要素は独立しるから。でもね、非線形では、引き込み現象が示しているように、要素は相互に依存している。フェリックスの哲学じゃあ、主観は均質じゃないから、自己組織化するってこと。

 非線形を感じてもらうために、ポップ・ミュージック史上最高の曲の一つをお聴かせしよう。ビーチ・ボーイズ(Beach Boys)、『グッド・バイブレーション(Good Vibrations)』。

 

Ah! I love the colorful clothes she wears

And the way the sunlight plays upon her hair

 

Ah! I hear the sound of a gentle word

On the wind that lifts her perfume through the air

 

I'm pickin' up good vibrations

She's givin' me the excitations

I'm pickin' up good vibrations

(Ooo, bop-bop, good vibrations)

She's givin' me the excitations

(Bop-bop, excitations)

(Good, good, good, good vibrations)

I'm pickin' up good vibrations

(Ooo, bop-bop, good vibrations)

She's givin' me the excitation

(Bop-bop, excitations)

(Good, good, good, good vibrations)

I'm pickin' up good vibrations

(Ooo, bop-bop, good vibrations)

She's givin' me the excitations

(Bop-bop, excitations)

 

Close my eyes; she's somehow closer now

Softly smile I know she must be kind

When -- I look in her eyes

She goes with me to a blossom world

 

I don't know where, but she sends me there

(Oh, my my love sensation)

(Oh, my my heart elation)

 

Gotta keep those lovin' good vibrations a-happenin' with her x3

 

Ohh!

 

(Good, good, good, good vibrations)

I'm pickin' up good vibrations

(Ooo, bop-bop, good vibrations)

She's givin' me the excitation

(Bop-bop, excitations)

(Good, good, good, good vibrations)

I'm pickin' up good vibrations

(Ooo, bop-bop, good vibrations)

 

Na na-na na-na na-na-na

 

 ブライアン・ウィルソンは、もう、天才。最高です!彼は、実は、方耳が聞こえない。信じられる?メロディもといい、コーラスといい、演奏といい、言うことなし!完璧なシンクロにシティ!一曲だけという条件なら、このポケット・シンフォニーにビートルズも及ばない。スクリティ・ポリティが後にコンピューターを使って、こうした試みに挑戦しているけど、このときは、聴覚のみ。ブライアン・ウィルソンは大バッハ波の才能の持ち主ですね。しかも、わずか三分そこそこに音楽のすべてを凝縮しているんだから、凄いの一言じゃありませんか。レナード・バーンスタインがブライアンを「アメリカの宝」って絶賛したけど、わかりますです、ハイ。

 フェリックスはこんな引き込み現象を著作に生かしている。ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)と共著で、『アンチ・オイディプス(L'anti-Oedipe,)(一九七二)、『カフカ─マイナー文学のために(Kafka, pour une littérature mineure)』(一九七五)、『千のプラトー(Mille Plateaux)』(一九八〇)、『哲学とは何か(Qu'est-ce que la philosophie ?)(一九九一) は世界に衝撃を与えている。さらに、イタリアのアントニオ・ネグリ(Antonio Negri)との共著『自由の新たな空間─闘争機械(Les nouveaux espaces de liberté)』(一九八五)も示唆に富んでいる。それらはいずれも著述における非線形的実践です。グッド・バイブレーションを感じさせてくれる。

 単独の著述家としても、ピエール・フェリックス・ガタリ(Pierre Félix Guattari)は、『精神分析と横断性(Psychanalyse et Transversalité)』(一九七二)を刊行しているけど、この「横断性」はポスト構造主義以降の思想のキーワード。でも、横断性自体に独創性はありゃしない。既存の領域が直面したディレンマを克服するために、それはとられた姿勢だから。こうした横断性が研究のアプローチに求められるようになったのも、非線形の世界をどう記述するかを考察する必要に迫られたせいなんです。カオス研究が本格化したのは一九七〇年代なんだけど、みんな何してたかな? 今は、それぞれの領域が相互浸透しているんです。クラシックとポピュラー・ミュージックも相互浸透してますよね?クロスオーバーみたいにどれがどの要素なのかって明確にわけれないんです。まだ萌芽的だったから、一九八〇年代にポストモダニズム的認識が流行して、それはいろんな領域の意識的なクロスオーバーが試みられていたけど、相互に浸透している今は「ポストモダン」と呼べないね。別の呼び名が必要。でも、「ポストポストモダン」じゃあねえ。ポストモダンのクロスオーバな組み合わせから相互に浸透してるんです。「大きな物語」の喪失がポストモダンなら、最近は何だろ?「カオスモーズ」かな、やっぱり。あるいは「カオスモーシズム(Chaosmosism)」?ポストモダンがなければ、カオスモーズはない。ポストモダンの拡張版だね。カオスモーズとポストモダンをかけて「カオスポストモダン(Chaospostmodern)」それとも「カオスモダン(Chaosmodern)?ピンとこないね。要素還元主義じゃないんですよ。だから、横断するとか言っても、「それって、何よ?」ってことなんですね。とにかく「カオス」と「浸透」がキーワードなのは、まだ普及してなくても、間違いない。「コンテンポラリー(Contemporary)」を超えて、「カオステンポラリー(Chaostemporary)」だもの。一九三〇年三月三〇日ヴィルヌーヴ・レ・サブロン(Villeneuve-les-Sablons)に生まれたこの哲学者は、以後の展開を省みると、明らかに、その前提を理解している。『分子革命(La révolution moléculaire)』(一九七七)から『機械状無意識(L'inconscient machinique)』(一九七九)へと至り、『闘争機械(Les années d'hiver)(一九八五)、『分裂分析的地図作成法(Cartographies schizoanalytiques)』(一九八九)、『三つのエコロジー(Les trois ecologies)(一九八九)、さらに『カオスモーズ(Chaosmose)(一九九〇) 。われら自由ラジオ放送局「カオスモーズ」はこのフェリックスの概念に由来してる。

 「カオスモーズ」なんて、おかしな名前だって?いいんです、定着すれば、よく感じるようになるんだから。コービー・ブライアント(Kobe Bryant)だって、父親のジョー・ジェリービーン・ブライアントが神戸牛のステーキが大好きだったんで、「神戸ステーキハウス」からとってつけたんだけど、今じゃあ、かっこいいじゃん。譬えて言うなら、新庄君がカリフォルニア巻きが好きだとして、仮によ、自分の息子に「新庄カリフォルニア」ってつけるようなもんだぜ。子供は、真実を知ったら、たまんないけど、活躍すると、それが逆によく響く。そういうもんなんです。ね、長ーい目でみてやって、チョーダイ!

 フェリックスは決してハンサムとは言えないけど、生粋の、そう正真正銘の反逆児ってルックスをしてる。いくつになってもウッドストックに行ったり、街頭で拡声器を握ったりしている姿が似合う男ですね。フラッシュ・ゴードンとドクター・ザルコフを足して二で割った感じ。思想家以上の何か、オーラみたいなものがありますねえ。Cool!

 ポスト構造主義者の例に漏れず、この戦闘的な思想家も、六八年の五月革命を体験していて、それが後の活動にも影響を与えております。一九五三年以降、ラ・ボルドゥ病院(clinique de La Borde)に勤務し、精神医療改革運動に参加しています。フランス精神分析の一派のラカン派に属していたものの、初期フロイトの著作に忠実じゃないってことで、総帥ジャック・ラカン(Jacques Lacan)を公然と批判する生粋の異端と見なされている。らしいでしょ?五〇年代から六〇年代にかけて、フランス新左翼の活動家としても活躍し、六八年には、急進的な左翼マルクス主義者の集団である「共産主義の道」に加わってます。

 六八年世代のテーマ曲と言ったら、もう、これしかない!ウルフマン・ジャックだって賛成してくれるさ。Wao!ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)、『パープル・へイズ(Purple Haze)』。Here we go!

 

Purple Haze was in my brain,

lately things don't seem the same,

actin' funny but I don't know why

'scuse me while I kiss the sky.

 

Purple Haze all around,

don't know if I'm coming up or down.

Am I happy or in misery?

Whatever it is, that girl put a spell on me.

 

Purple Haze was in my eyes,

don't know if it's day or night,

you've got me blowing, blowing my mind

is it tomorrow or just the end of time?

 

 二〇世紀は革命という現象が世界規模で拡大したけど、それは、必ずしも、ソ連やキューバ、イラン、チェコといった国家レベルだけではなく、公民権運動や女性解放、エスニックの権利獲得も含まれる。前者が大きな革命、熱い革命だとすれば、後者は小さな革命、冷たい革命。最近の同性婚をめぐる動きもそうした革命の一種と言っていいだろうな。オルタネイティブ志向もその現われ。革命の温度は時代と共に下がり続け、と同時に、その規模は小さくなっていく。企業合併が相次いで規模の経済に向かってる一方で、ソフトバンクみたいな範囲の経済志向も生まれて、大きさが追求されてるけど、小ささの重要性を忘れちゃいけません。

 最近、こんなニュースが流れてますね。レストラン「ルカ・カルトン(Lucas Carton)」のオーナー兼シェフのアラン・サンドラン(Alain Senderens)は二八年間維持してきた『ミシュラン(Le Michelin)』の三ツ星(ses trois étoiles)を返上し、夏季休業後から、同店をより低価格で気楽に入れるブラッスリー(brasserie)に改装すると公表している。ブラッスリーって言うのは、カフェ・レストランのこと。この三ツ星返上は、パリじゃ、九六年にラ・トゥール・ダルジャン(La tour dÕArgent)の降格以来の事件と見なされています。アラン・サンドランって、すごい人で、かつてフランス料理を変えた大物。古典的なフランス料理を革新した巨匠だから、それだけに、時代というものを適確につかんでいるのかも。今、「C世代」って、フランス料理の革新を志向する若手シェフのグループもあるけど、日本料理もとり入れたりしてんのよ、彼らからも一目置かれてる。メニューの単価を現在の半分以下の一〇〇ユーロ程度に想定している。それでも、ちょっとまだ高くない?えー、だいたい一万五〇〇〇円くらい?すぐに計算なんてできないよ。AFP通信に対して、「時代は変わっている。三ツ星のサービスは無理でも、同じ味をよりやすく楽しんでもらいたい」と答えている。ミシュランの評価には、食材や味、調理設備以外にも、内外装、テーブルの間隔、客一人当たりの従業員数なども考慮されるため、必要経費がかさみ、メニューの価格が高くならざるを得ない。何でもそうだけど、維持費ってのは、結構、馬鹿にならない。売りに出ているネバー・ランドを買えても、その維持には何倍もの金がかかる。でも、あれ、何か売れたみたいね。物好きな金持ちっているもんだよなあ。三ツ星レストランの客層はね、実のところ、社用族や観光客が多くて、パリっぽい雰囲気ってちょっとなくなりつつあるのね。かえってビストロのほうがいい感じなわけよ。高い店にさ、地元の人間、行けないじゃん。お得な店、安くてうまい店にそういう人は集まるよね。三ツ星の支持者も、反対者も、それは認めてんのね。おまけに、このガイドの格付けを気にしすぎて、オーナーやシェフが神経をすり減らし、自殺してしまうケースさえある。『フィガロ(Le Figaro)』紙は、Fiiigaro, Fiiigaro, Fiiiiigaro♪、二〇〇五年五月二〇日付の紙面で、六五歳の偉大な料理人の決断を「小さな革命(une petite révolution)」と命名している。店の名前も「サンドラン」に変えるそうです。

 この「小さな」というのは九〇年代以降のキーワード。進め進め、われら月光町ちっちゃいものクラブ♪ちっちゃいのってさ、「カワイイ」よね?そうそう、「カワイイ」が世界的に流行ってんでしょ?タイヤロシア、アメリカ、フランスとかで、「カワイイ」で通じるんだって?。「カワイイ」は、英語で言うと、”sweet”だね。グエン・ステファニーは「スーパー・キュート」って言い表わしてるけど、「スイート」だろう、やっぱ。そのほうが本質がわかるよ。あ、「スイート」ってのは、幼い子供に対して使う表現。田中康夫の『なんとなく、クリスタル』って、読んだことある?あの主人公はさ、「気分」がすべての基準なんだよ。あれって、日本文学の保守本流の私小説なわけ。私小説って、主人公の気分気分しか書かれていないよ。この図式自体は「カワイイ」も同じで、それが道徳基準になってんだよねえ。「カワイイ」って、一種のノイズ。そう考えると、「カワイイ」文化は刺激的だよ。だから、驚いたんじゃない、世界は?例えば、ジャン・レノと広末が出てた映画『WASABI』なんか、それをノイズとして使ってた。逆に、日本のほうがそれに気がついてなくて、『こち亀』くらいかな。ただ、「カワイイ」は体系性はないから、本質的なながれにはならないだろうけどね。

 「カワイイ」と言えば〜、これじゃない〜?O-Zoneで『恋のマイアヒ(Dragostea din tei)』。

 

Ma ia hii

Ma ia huu

Ma ia hoo

Ma ia haha

 

Alo, salut, sunt eu, un haiduc

si te rog, iubirea mea, primeste fericirea. Alo, alo, sunt eu, Picasso

ti-am dat beep si sunt voinic

Dar sa stii, nu-ti cer nimic.

 

Vrei sa pleci dar nu-mă, nu-mă iei

Nu-mă, nu-ma iei, nu-mă, nu-mă, nu-mă iei

Chipul tău si dragostea din tei

Mi-amintesc de ochii tăi.

 

Vrei să pleci dar nu-mă, nu-mă iei

Nu-mă, nu-mă iei, nu-mă, nu-mă, nu-mă iei

Chipul tău si dragostea din tei

Mi-amintesc de ochii tăi.

 

Te sun, să-ti spun, ce simt, acum

Alo, iubirea mea sunt eu, fericirea.

Alo, alo, sunt iarasi eu, Picasso

ti-am dat beep si sunt voinic

Dar să stii, nu-ti cer nimic.

 

Vrei să pleci dar nu-mă, nu-ma iei

Nu-mă, nu-mă iei, nu-mă, nu-mă, nu-mă iei

Chipul tău si dragostea din tei

Mi-amintesc de ochii tăi.

 

Vrei să pleci dar nu-mă, nu-ma iei

Nu-mă, nu-mă iei, nu-mă, nu-mă, nu-mă iei

Chipul tău si dragostea din tei

Mi-amintesc de ochii tăi.

 

Mai ah hee

Mai ah hoo

Mai ah ha

Mai ah haha (x4)

 

Vrei să pleci dar nu-mă, nu-ma iei

Nu-mă, nu-mă iei, nu-mă, nu-mă, nu-mă iei

Chipul tău si dragostea din tei

Mi-amintesc de ochii tăi.

 

Vrei să pleci dar nu-mă, nu-ma iei

Nu-mă, nu-mă iei, nu-mă, nu-mă, nu-mă iei

Chipul tău si dragostea din tei

Mi-amintesc de ochii tăi.

 

 脈絡なく、曲をかけちゃったんで、話を戻すと、ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-Francois Lyotard,)は『ポストモダンの条件(La condition postmoderne)(一九七九)で東西冷戦構造の解体を受けて、マルクス主義という「大きな物語(Metanarratices)」の終焉を唱えているけど、まあ、「大きなマルクス主義」の時代は終わったと考えるべきです。「小さなマルクス主義」は、むしろ、有効になっているんじゃないですかねえ。しかも、小さければ、身軽だから、変化にも対応しやすい。鯨一頭と鰯の群れではどっちがUターンしやすいか考えてみればわかるでしょ。変化に備えて、一時的・暫定的な拠点でいい。ミル・プラトーってそういうこと。あんまり何かの「終わり」って大見得きらないほうがいい。時代の流れはそうじゃない?

 夏と聞いて、この極を思い出しちゃったんで、さっきかけたばっかりだけど、また曲をかけちゃいます。六〇年代くらいまで、映画音楽とかイージー・リスニングがヒットチャートの上位にいたんです、今では信じられませんけど。これもそんな時代の曲です。一九五九年に公開されたアメリカ映画『避暑地の恋(A Summer Place)』の主題歌としてヒットしています。パーシー・フェイス・オーケストラ(Percy Faith & His Orchestra)で、『夏の日の恋(Theme From ”A Summer Place”)』。

 

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 イギリスのマルクス主義者レイモンド・ウィリアムズ(Raymond Williams)が『長い革命(The Long Revolution)(一九六一)で展開した通り、第四インターナショナルの指導者エルネスト・マンデル(‘Ernest Mandel)の定義に従うと、「後期資本主義社会(Late Capitalism)」における革命は政治革命・社会革命・文化革命が組み合った静かな革命であり、長い革命にならざるをえない。政治と社会、文化はジェンカを踊りながら、進んでってる。ハィ レット キス 頬寄せて レット キス 目を閉じて レット キス 小鳥のように 唇を重ねよう♪ギリシアのニコス・プーランツァス(Νίκος Πουλαντζάς)は、ルイ・アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」を受けて、『国家・権力・社会主義(State, Power, Socialism)(一九七八)の中で、国家を階級の「力関係の凝縮されたもの」と把握している。国家はブルジョア階級による支配の道具だけど、プロレタリアートもその維持に加担しているじゃないか。確かに、被支配者の間でも、支配者=被支配者が存在する。労働者の中で女性や障害者が差別されているのも、その一つです。

 最初の小さなマルクス主義者とも言うべきアントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)は「分子的変化」という概念を提示したけども、革命はそもそも化学反応です。革命はいつもその爆発のエネルギー、熱力学的側面ばかり見られてますが、化学的側面を忘れちゃいけません。「空想から科学へ」は「錬金術から化学へ」と言い換えられる。フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)は、『資本論(Das Kapital)』第二巻の「序文」の中で、「そこで、マルクスは剰余価値についてどんな新しいことを言ったのか?彼のすべての社会主義的先行者の諸理論が、ロドベルトゥスのそれを含めて、無効に燃えつくしてしまったのに、どうしてマルクスの剰余価値理論が、青天の霹靂のように轟いたのか、しかもすべての文明国において?化学の歴史はこれについて、一つの例をもってわれわれに教えることができる」と記し、フロジストン酸素を否定したアントワーヌ・ラヴォアジェ(Antoine Lavoisier)にカール・マルクスをなぞらえています。変化は徐々にではなく、急速に起こる。それは、ときとして、爆発が生じてしまうように、危険。でも、急速な短期的変化なんて長続きしない。国家をのっとるよりも、運営するほうがどれだけ難しいかは多くの軍事クーデターが教えてくれてますです。「分子的変化」は社会的運動の中にあって、それは誰も気がつかないうちに、社会勢力の構造に変化を引き起こし、年月を経て、それが沈着して社会の基盤まで変容して大きな変化が起こる。このプロセスにおいて、労働者階級は同業的・経済的段階から知的・道徳的段階へと階級・国家を超えた連合体を形成するってグラムシは考えている。ラテン語の格言にもこうあります、「ゆっくり急げ」。さらに、ブルガリア出身のユダヤ系の思想家エリアス・カネッティ(Elias Canetti)は、『群衆と権力(Masse und Macht)(一九六〇)において、多数性・画一性を特徴とする「群衆(Crowds)」と少数性・多様性を特色とする「群れ(Packs)」を分類している。DGは、それを受けて、『千のプラトー』で、前者を「モル的」、後者を「分子的」と把握し、「分子革命」を提唱する。大きな革命はモル的でしかなかったが、これからの小さな革命は分子的。分子的変化は「群集」ではなく、「群れ」として表象されなければならない。従来のマルクス主義者は革命を熱力学的な認識によって把握していたけど、フェリックスの「分子革命」は化学的な平衡=非平衡に基づく革命です。それによって、メッセージや観念の伝達や植えつけ、組織の再編による再管理ではなく、個々人の情感や無意識の中に身ぶりや表情、自律神経、免疫の変化として現われてくる変化を起こさせる諸々の活動を示唆している。

 分子レベルへの認識はナノテクノロジーのような工学や素粒子研究みたいな物理学の対象領域ではなく、日常生活においても見られる。これは幸運であるとは言えないよね。例えば、環境ホルモン。あれは非線形的な事態。内分泌かく乱物質による生態系への影響は従来考えられてきた化学物質の摂取量よりはるかに少ない量だもの。環境ホルモンは死ぬことはないけど、生殖器や生殖機能の構造に異常をきたしてしまう。因果関係を科学は問題にしてきたけど、環境ホルモンの場合、影響ですから。他にも、分子レベルは至るところに見出される。ドラッグ、筋肉増強剤や興奮剤などのドーピングも同じだ。どっちも著しい健康被害をもたらすことがある。まいったね。ベン・ジョンソンもジェイソン・ジアンビーもよくやるよ。Killing me softly with his song

 フェリックスは、「分子革命」の一環として、トニー・ネグリと共に、七〇年代、アウトノミア運動を支持している。イタリア国内では、自由ラジオ、空屋占拠、アート、音楽、ジルとフェリックスの「分子革命」や「リゾーム」、「ミル・プラトー」の実践として活動してもいたんだけど、六八年世代の学生運動同様、テロリズムに走ったり、内ゲバが横行し始めたせいで、アウトノミア全体が「赤い旅団」と不適切な関係にあると見なされて──Le Brigate Rosseはアルド・モロ元首相を誘拐した上で、「有罪」として処刑しちまった──、警察と軍隊によって解体され、トニーはフランスに亡命しなきゃならなくなる。かわいそうなトニー!Tony, Tony. Always you, every thought I'll ever know Everywhere I go you'll be. All the world is only you and me♪実は、イタリアでアウトノミアが始まった頃、ヨーロッパでは自治、あるいは自主管理が新たなマルクス主義の傾向として再検討されている。コルネリウス・カストリアディス(Cornelius Castoriadis)が『社会主義か野蛮か(Socialisme ou Barbarie)』誌に多くの論文を発表してたんだけど、そこで「自主管理民主主義」、アウトノミアの理論を主張しています。このギリシア人は非マルクス主義系の社会主義思想家。でもね、カール・マルクスも、『資本論』の註の中で、「ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている」と書いています。ベニート・ムッソリーニのクソッタレにとっ捕まえられちまったトリノのアントーニオも、労働者による自主管理を軸とする工場評議会運動を展開してる。

 おっと、汚い言葉を使っちまった。ラジオのアナウンサーやパーソナリティは、概して、丁寧な言葉遣いです。でも、うちは放送法に従ってるわけじゃないから、謝りはしない。いくらだって言える。Connard! Sale con! Timblé! Crétin! Salaud! Salope! Couillon! Putin! Couille mole! Tu fais chier! T’es chien! Espéce d’imbécile!もんだどんだい。でも、規制されていないから、使うというのも、垢抜けないんで、これ以降はちょっと控えよ。自主的に放送倫理をつくれなきゃね。土居まさるさんも草葉の陰からそう見守ってくれてるさ。

 権力は関係概念で、権力を支えているのは自発的服従ってこと。こんな説明はあんま好きじゃないんだけど、俗っぽい言い方をすれば、無駄な公共事業をやめるべきだとある政治家が意見を述べたとしても、それに反対するのは既得権益を握っている官庁だけじゃないでしょ。そういったことで食っている業者も文句を言うじゃない?組合だって、既得権益を奪われる規制緩和に、賛同なんかしない。社会党が一九九二年からアスベスト製品の製造、販売などを原則禁止にする「石綿規制法」の成立を目指してたんですけど、石綿建材メーカー八社の労働組合が反対し、連合も事実上反対したため、九四年秋に法制化を断念してるんです。組合も、連合も、「急な規制は雇用不安を招く」と考え、アスベストの危険性を軽視していたんですね。権力は自発的服従を再生産し続けるってわけ。もちろん、不当な抑圧に対しては抵抗を続けなきゃいけません。障害や病気、出自、セクシャリティ、性別、年齢によって差別を受けていることはまったく許しがたい。大切なのは共生するってことだ。でも、そこに支配=服従があっちゃあおしまいだ。権力は支配=服従の関係をさまざまな組織・機関・制度を通じて無意識に訴える。分子的レベルに訴えるんです。無意識ってのは、フェリックスには、分子的と同意語。ちょっと考えてみて、自粛ってあるじゃない?あれだって、自発的服従の典型。素朴に、関係を断ち切って、自給自足になればいいってもんでもない。クメール・ルージュはどうですか、お客さん?

 東西冷戦はマクロ的視点において平衡状態だったから、必ずしも、こうした自主管理の思想は生かされていない。アウトノミアは非平衡の試みと言っていい。化学反応で、反応する分子が単位時間内に減少し、生成する物質の量は増大していくと、ある一定のエネルギー以上のエネルギーを持つ粒子間で一度エネルギーの高い不安定な状態の活性錯体がつくられて、活性錯体を形成した粒子のみが生成物に変化します。正反応の活性化エネルギーと反応熱が逆反応の活性化エネルギーに相当するってこと。化学平衡は密閉した容器内で可逆反応が起こり、十分に時間が経過すると、容器内の反応物質と生成物質のモル濃度や容器内の温度や圧力が一定となり、見かけ上、反応が停止した状態になること指す。この場合、正反応と逆反応の速度は等しくなりますね。これが平衡と呼ばれる状態。一九七〇年代のアウトノミア運動は東西冷戦構造の中でのミクロ的非平衡にすぎない。見かけ上は。反応が停止してんだからさ。分子的変化がマクロ的な平衡状態によって見えにくくなっていたもの。一九五五年七月九日、核兵器による力の均衡を非難するラッセル=アインシュタイン宣言が出されたけど、もともとこの均衡論は蒸気船を発明したジェームズ・フルトンが唱えたもの。最終兵器が開発されれば、どの政府も怖がって使わなくなるから、均衡が保たれて、戦争をしなくなるという考え方。熱力学的認識から導き出している。象徴的でしょ。アウトノミアは、むしろ、九・一一以降において有効じゃない?東西冷戦構造が崩壊して、グローバリゼーションに代表されるエントロピーが増大しているわけだから、まだ平衡には達していない。あくまで、エントロピー増大は閉じられた系に見られる現象。東西冷戦構造が崩壊しても、閉じられた系であることには違いはない。フェリックスには開かれた系こそ大切。だから、それは運動じゃなくて、現象。アウトノミア現象。グローバリゼーションというエントロピー増大に従わない非平衡的な自己組織化的な現象。フェリックスはミクロ的な活動を重視します。でも、あくまでもそれはグローバルな動きと無縁ではない。両者は、フェリックスによると、フラクタルな関係にあるというんだけど、まあ、その共通点は非平衡に見出されるんですね。

 非平衡にあっても、平衡に至らなくとも、ある種の秩序が生まれうる。ベルギーの物理学者イリヤ・プリゴジン(Ilya Prigogine)は、与えられた条件下で、熱伝導や拡散、化学反応などが進行している非平衡系において、単位時間当たりに生成するエントロピーの量が最小になるように定常状態が決定されるという定理を発見している。これは画期的。と言うのも、それまで非平衡状態では予想可能な秩序が生じることはないと考えられていたから。エントロピーは増大し、エネルギーは散逸する。安定状態が分岐し、新たな状態に転移して形成されます。熱平衡に到達していない系では、系の安定状態に関与する変数が変化すると、別な安定状態になるが、プリゴジンはこうした非平衡系に特有な散逸構造を見つけたってわけ。溶液が平衡状態にあるときは、温度や圧力などの物理学的性質は変化せず、また系への物質やエネルギーの出入りもないはず。実際には溶液中では恒常的に変化が起こっているにもかかわらず、系としてある程度の秩序は保たれているんです。溶液の温度を低温から急に上昇させると、溶液の小さいセルが秩序を維持しながら全体の中を動くだけじゃなく、この現象が不可逆であり、溶液を冷却しても逆の現象は生じないことまで発見し照る。ボーっとしてじゃだめだよ〜。好奇心を持たなきゃ。Curiosity kill the cat?好奇心の結果、独創的なことができるだけ。こうした非平衡系における秩序の仕組みとして「散逸構造(Dis-sipative Structure)」という概念を提唱する。周囲の環境と共存した状態で存在する散逸系があり、物質とエネルギーが互いに作用しあってより秩序性の高い状態になる現象がありうるのです。なんか、今の国際社会みたいね。どうよ?

 エントロピーは閉じられた系で増大します。開かれた系ではありえません。世界はグローバリゼーションというエントロピー増大によって均一化しつつある。フェリックスはその増大に従わない方法論をアウトノミアに見てとっていますね。けれども、彼の理論ならびに実践を抵抗運動と捉えちゃだめだよね。運動は力の方向を意味するんだから。グローバリゼーションは拡散現象であり、その分子レベルの方向は不規則であり、それに対する抵抗運動などブラウン運動性をより強固にするだけ。ブラウン運動は分子の熱運動による不規則な衝突によって生じてんのね。ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius)は、一八六五年、世界のエネルギーは一定であり、そのエントロピーは極大値へ向かうと発表している。つまり、世界は閉じられているってわけ。でも、このエントロピーという発想は環境問題に直結します。反応が不可逆だから、二酸化炭素やダイオキシンが地球に蓄積するんです。フェリックスは自然環境だけを問題にする古典的なエコロジーには、テクノクラートに対して同様、反対している。世界はそれほど素朴ではない。「分子的変化」を考慮しなきゃいけない。分子的レベルから見れば、環境の変化と社会ならびに精神のそれは切り離せないんで、環境のエコロジーは社会・精神のエコロジーと関連させた三つのエコロジー、エコゾフィーをフェリックスは提唱してます。環境問題が従来の社会的問題と違うのは、それが空間的・時間的にinvisibleな人たちに向けて解決策を講じなければいけないってこと。未来に関しては伝統的な社会においては線的に把握されていたのね。ネイティヴ・アメリカンやアイヌの知恵なんかそうだし、学ぶとこあるよね。でも、昔の人はさ、たぶん、南極のことは考えてないよね。もっとも、すべての変化に疎い人もいる。ジョージ・W・ブッシュ大統領は記者に「大統領、エコロジーについてどう思いますか?」と尋ねられて、こう答えたらしい。「エコロジー?そんなNFLの選手いたかなあ?」

 フランス語の曲をかけてないねえ。でも、忘れていたわけじゃないよ。タイミングを計っていただけ。次の曲はボリス・ヴィアン(Boris Vian)、『僕はスノッブ(J'suis snob”)』。

 

J'suis snob... J'suis snob

C'est vraiment l'seul défaut que j'gobe

Ça demande des mois d'turbin

C'est une vie de galérien

Mais lorsque je sors à son bras

Je suis fier du résultat

J'suis snob... Foutrement snob

Tous mes amis le sont

On est snobs et c'est bon

 

Chemises d'organdi, chaussures de zébu

Cravate d'Italie et méchant complet vermoulu

Un rubis au doigt... de pied, pas çui-là

Les ongles tout noirs et un tres joli p'tit mouchoir

J'vais au cinéma voir des films suédois

Et j'entre au bistro pour boire du whisky à gogo

J'ai pas mal au foie, personne fait plus ça

J'ai un ulcère, c'est moins banal et plus cher

 

J'suis snob... J'suis snob

J'm'appelle Patrick, mais on dit Bob

Je fais du ch'val tous les matins

Car j'ador' l'odeur du crottin

Je ne fréquente que des baronnes

Aux noms comme des trombones

J'suis snob... Excessivement snob

Et quand j'parle d'amour

C'est tout nu dans la cour

 

On se réunit avec les amis

Tous les vendredis, pour faire des snobisme-parties

Il y a du coca, on deteste ça

Et du camembert qu'on mange à la petite cuiller

Mon appartement est vraiment charmant

J'me chauffe au diamant, on n'peut rien rêver d'plus fumant

J'avais la télé, mais ça m'ennuyait

Je l'ai r'tournée... d'l'aut' côté c'est passionnant

 

J'suis snob... J'suis snob

J'suis ravagé par ce microbe

J'ai des accidents en Jaguar

Je passe le mois d'août au plumard

C'est dans les p'tits détails comme ça

Que l'on est snob ou pas

J'suis snob... Encor plus snob que tout à l'heure

Et quand je serai mort

J'veux un suaire de chez Dior!

 

 アントナン・アルトーを援用し、フェリックスはジルと共に「器官なき身体(Corps Sans Organe)」を提起する。これは、あらかじめ与えられた「有機体(organisme)」を前提とした統一的な身体ではなく、それぞれの部分が先に存在している身体のこと。この部分は、有機体に閉じこめられ、全体に奉仕する一定の役割しか果たさないのではなく、他の部分とリゾーム的に結びついている。新しい生成を形成し、また他の部分との結合を切り離して、別の部分と結合することもできる。別に抽象的な話じゃない。植物は、枝や根、葉が示している通り、多種多様なパターンによって複雑に構成されてます。でも、その内部には器官がなく、単純だ。生殖細胞はなく、未分化の細胞、すなわちカルスからでさえ増殖できる。接木も挿木も可能。フランスのワイン用のブドウのほとんどは接木して育てているし、「ポマト」なんてのもありましたねえ。「器官なき身体」ってのは、植物的な生成のことなんだ。でも、植物にも、フェリックスは、ジルと一緒に、二種類あると言ってます。「リゾーム(Rhizome)」と「ツリー」。ツリー、つまり樹木は、生物学で用いられる系統樹のように、根・幹・枝・葉という秩序・ヒエラルキーを表現している。樹木が西洋の伝統的なコスモスの思考を示す比喩であるのに対して、リゾームはカオスな関係の比喩。リゾームが相互に関係のない異質なものが上下ではなく、横断的に結びつくものなんて、それを言っちゃあおしまいだよ。結構。似てるでしょ。寅さんの物真似のコツは表情豊かに口を開けて、ため息をつくように、摩擦音で声を出すこと。ゆっくりと柔らかく息をのどから出すと、寅さんが久しぶりに柴又に帰ってきておばちゃんに挨拶をしている感じになる。感情が高ぶってくると、寅さんは摩擦音からはりのある音に変わるので、要注意。リゾームは無秩序に見えて、自己組織的な秩序がある。それは、非線形性を持っている点で、ロゴス中心主義を否定する。リゾームは、だからさ、ノマドとも深い関係にあるのね。

 ツリーとリゾームの寓話は壁と膜に置き換えられる。ツリーが象徴するのは膜、より正確には、細胞壁。それは浸透しない。東西冷戦構造は、ベルリンの壁を思い起こすまでもなく、壁の世界。"Ich bin ein Berliner".完全に閉じられた系で、全体として見れば、平衡状態に達している。一方、リゾームは膜、細胞膜です。それは半透で、通すものと通さないものがある。九〇年以降は膜の世界と言っていいんじゃないんすかねえ。移民や難民はこの膜を通り抜けるようとして、浸透圧が生じている。現代の発展した都市は、輸送手段と情報通信の高速化・大容量化に伴い、巨大化が促進されると同時に、コミュニケーション空間は縮小している。ここで注意が要る。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは。『ドイツ・イデオロギー』の中で、「交通」という概念を提起しているが、コミュニケーションの拡大には輸送・通信手段の発達が不可欠。グーテンベルク革命が起きても、印刷物はそれほど広まっていなかったけれども、輸送手段の拡大によって書籍・新聞・雑誌等が印刷所から遠隔地にも運ぶことができるようになった一九世紀に入って、印刷メディアはその意義を発揮している。近年、交通がメガ化し、しかも、都市の内外部における貧富の格差が拡大している。人件費の安さを求めて、資本が途上国に流入していく一方で、先進国は移民や難民への入国制限を強化している。彼らは国民の仕事を奪い、われわれの社会への同化を拒み、犯罪さえ厭わない堕落した連中だというわけです。インフラには補修・修繕が欠かせないんですけど、アフリカを筆頭にした途上国への援助にはその側面が脆弱なんです。かりに発展途上国に援助して、時速60kmで走行してもまったく揺れない舗装道路を敷いたとしても、補修・修繕を怠れば、穴だらけになってしまいます。この補修・修繕の教育は、想像できる通り、手間がかかります。アフリカのお粗末なインフラの現状はこの補修・修繕教育への意識の低さがあるんです。いくら経済援助をしても、その効果は長続きしません。先進国の援助はいつもこうした中抜きなんです。これでは人は逃げ出したくなります。人材育成は最も重要な援助なんです。グローバリゼーションは世界の均質化を目指しているけど、もしそうなったら、資本主義はもたない。例えば、日本だと、安い人件費を求めて、中国に工場柄お立てたり、正社員じゃなくて派遣やパートを採用してる、ヨーゼフ・アロイス・シュンペーター教授は経済の発展にイノベーションを重視したけど、各企業にすれば、人件費の負担が一番大きいでしょ。ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg)というポーランド出身の美しく聡明なマルクス主義者は、『資本蓄積論(Die Akkumulation des Kapitals)(一九一三)で、資本主義体制の成長には非資本主義的生産の領域への拡張が欠かせないと指摘したんです。これは当時の指導的マルクス主義者から非難されたけど、すごく現代的。資本主義社会の崩壊は内部的矛盾ではなくて、国際的な戦争や植民地の解放闘争にあるというわけ。カール・マルクスは資本主義社会の内部的矛盾に耐えきれなくなったプロレタリアートが革命を起こして、それをぶっ壊すと考えたけど、現代世界を読み解くのには彼女のテキストは刺激的だよ。イノベーションじゃ、カバーできない。イノベーションと人手が反比例するケースも少なくありません。イノベーションが進んで、驚異的な演算処理能力を備えたゲーム機が登場した結果、ゲーム・ソフトの開発では、逆に、これまで以上に人手が必要になっています。日本企業では、生産の拠点を海外に移しているのは珍しくないで好けども、中には、東証一部上場企業の中にも、研究開発・販売・サービスは国内でやってても、生産はすべて海外なんてとこもあります。ある企業のトップが言ってたんですが、あのお、中国とインド、それにインドネシアに工場を構えていれば、あと五〇年は人件費に関して心配する必要はないそうです。中国で事業展開していると、なるほど、上のほうは、昔自転車で通勤していたのが、バイクになり、今では車だけども、全従業員の九割を占めてるのは、いわゆる労働者、ワーカーです。しかも、そのほとんどは二〇歳前後の女性なんです。こういう人たちというのは貧しい地域からの出稼ぎで、まあ長くいれば給料をあげることになるんですけど、そういうとこは考えが保守的と言うか、伝統的ですから、女性はさっさと結婚しなきゃいけないんで、四年もすると郷里に帰って、結婚しちゃうんです。その地域が豊かになれば、まだ貧しいとこから募集するんで、だから、一〇年以上も初任給をあげていないとその幹部は言ってました。そうねえ、搾取だよねえ、考えてみれば。マルクスは正しい。そうそう、中国に進出するとき、中国共産党の幹部と知り合いになるとうまくいくらしい。こっちは材料や機械、ノウハウを提供するから、そっちから土地と工場、労働者を用意してくれとタイアップすると円滑にいくようなんですよねえ。ちなみに、古くなって、日本企業がいなくなった工場は地元の企業にレンタルするんで、損はないらしい。中国での日本企業の成功の理由は、たんに人件費に安さだけじゃないんです、実は。経営の現地化です。結構、経営を現地の人に任せてるんですわ。八〇年代は生産の現地化で、そこまで要ると思っていませんでした。「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」で傲慢になっちゃって、日本式が正しいと、アメリカとか東南アジアとか韓国とか、進出先に押しつて反発を招いて、結局、撤退になっちゃったってことが多かったんです。その苦い経験が生きてるってわけ。現地に同化して、愛される企業にならなきゃいけないと思いだしたんですなあ。これは日本企業だけでなく、世界的な傾向です。つまり、資本主義は均質ではない外部を求めて、内在化していってるってわけ。世界が均質化したら、どうすんの?EU憲法への批准反対なんか膜の時代だから起きてるってこと。確かに、ニューヨークやロンドン、東京のように、都市はエスニック化した小社会の連合体。固定化しちゃうわけよ。やっぱり。この系は開かれていて、非平衡でしかない。

 フェリックスは固定的秩序にもエントロピー増大の法則にも賛同しません。エントロピー増大の法則は閉じた系においてのみ適用されるけど、非平衡系はそれに従うことはない。分子革命とは非平衡革命のこと。フェリックスは、そこで、「カオスモーズ」を提唱するんですな、これが。それは「カオス(Chaos)」と「コスモス(Cosmos)」に「浸透(Osmosis)」を加えた合成語で、カオスを伴った浸透のこと。現実は大きな物語のプランに従ってるわけじゃない。カオスとコスモスが相互に浸透の状態にあって、その結果として、混乱と秩序が重なって新しいものが創造されていくんじゃないのってフェリックスは考える。カオスモーズは、まあ「カオスの縁(Edge of Chaos)」ですね。カオスモーズは、確か、『フィネガンズ・ウェイク(Finnegans Wake)』でジェームズ・ジョイスが使い始めている。ウンベルト・エーコもカオスとコスモスを組み合わせて「カオスモス(Chaosmos)」を提示したけど、フェリックスはここにさらに「オスモーズ」という含意をも加えて、オートポイエーシスや精神分析にも言及しつつ、「メタモデル化」や「美のパラダイム」、「生態哲学」などの概念を生産し続ける。フェリックスはもう欲動をあまり語らない。それよか、機械について考えています。リビドーや無意識、シニフィアンも同様。流れやカオスモーズへ視点が移動している。オートポィエーシス(Autopoiesis)ってのは、境界を自ら創出することにより、その都度自己を制作するという理論。もともとは、チリの神経生理学者ウンベルト・マトゥラーナ(Humberto Maturana)とフランシスコ・バレラ(Francisco Varela)の共著論文『オートポイエーシス─生命の有機構成(De Máquinas y Seres Vivos: Una teoría sobre la organización biológica)』(一九七三)で初めて提起されていて、神経システムをモデルにして考案され、細胞システムや免疫システムに拡大していった思想。要は、自己組織化の応用。で、浸透について少し説明しとく。浸透は一枚の半透膜を境として、ある溶液の成分の一方は膜を通過できず、逆に、もう一方の成分は通過できる現象のこと。ほとんどの膜は全透性か不透性かのどちらかの性質を示し、選択的に通過させる膜は、細胞膜など本当にわずかしかない。水溶液の中に細胞を置くと浸透が起こり、周囲の水溶液が細胞よりも高張だと、細胞から外に向かって、逆に低張であれば、外から細胞へと水溶液が移動します。植物細胞の場合には、細胞膜の外側に全透性の細胞壁があるため、ある程度は膨らむけど、壁圧とつりあったところでとまっちゃう。また、高張液中で原形質から水が出て、細胞の原形質と細胞壁が分離する原形質分離が生じることもある。細胞膜は、細胞の内外を隔てる生体膜。細胞膜は、脂質二重層とそれに埋め込まれたり結合したりした状態の膜タンパク質からなり、さらにこの脂質や膜タンパク質には多くの場合糖鎖が結合している。細胞表層は全体として複雑な構造となり、細胞の種類ごとに特徴的なものとなるんです。細胞膜は細胞内外を単に隔てている静的な構造体じゃあない。 外界との境界として内部物質の流出を防いだり、酵素によって物質代謝を行ったり、受容体での情報を感受したり、輸送体による選択透過性を持っていたり、能動輸送や促進拡散をしたり、免疫特性の発現をしたり、なあ、他にも役割を果たしています。光合成みたいな生体エネルギー変換なんかを担う重要な酵素群は膜にあることが多いね。構成している脂質はリン脂質が多いが、動物細胞においてはコレステロールがかなりの割合であるけど、細胞標識そして糖脂質もある。『分子革命』が刊行された一九七二年、SJ・シンガー(SJ Singer)とガース・ニコルソン(Garth L. Nicolson)が興味深い生体膜モデルを示している。彼らは、生体膜は脂質二重層の中にタンパク質がモザイク状に混在し、タンパク質はその中を浮遊して拡散によって移動していると主張したんですね。このモデルは脂質の配向のみならず、膜タンパクの疎水部分は膜の内側に、親水部分は膜の外側に配置されるということも明らかにする。また、その挙動は完全に固定されてない。タンパク質自身が移動するだけじゃなくて、膜内の形態変化も示唆してる。これらの現象は一分子観測などによって、ちゃんと観察されている。細胞膜は脂質の二重膜(lipid bilayer)の海に、膜タンパク質が氷山のように頭を少し出して浮かんだような構造をしていると考えられるってわけよ。この構造モデルを「流動モザイクモデル(Fluid Mosaic Model)」と呼ばれる。面白くない?開かれた系の非平衡。だから、カオスモーズはリポゾームの比喩として語ることがきる。リボソーム(Ribosome)はすべての生物の細胞内に必ず存在し、タンパク質合成を行う細胞内粒子。そのことから、さまざまな種類の生物でリボソームを合成するためのDNAの情報を分析すれば、それぞれの種がどれに近い関係にあるかが理解できると推測されてる。リポソームは膜の内外の浸透圧の差に基づき、形態が変化する。体積は異なるものの、表面積は同一。浸透圧の初期値敏感性、カオスだってわけ。アウトノミアのオルガンもこんなリポソームみたいじゃなきゃいけない。細胞膜はリン脂質分子が二重層を形成して連結したもので、八から一〇nmの厚さがあり、細胞と外界の境界をなしている。ナノメートルは一〇〇万分一ミリメートル。ナノ、ナノ、ナノナノナノ、ってあれはナハか。今日も苦しい戦いを強いられている。皆さん、ついてきてくださいよ。細胞膜には、脂質のほかに、ポリペプチドなどのタンパク質性の要素もあり、脂質層の内面や外面に結合している。ポリペプチドは脂質層の内部にも入り込んでる。これらの構造には半透性がある。こう考えると、カオスモーズは、音楽や文学のように、異質な世界の多層的構築で、超越的・絶対的な価値が存在せず、あいまいなものを含み、境界がはっきりしない世界をうまく言い表わしてる。頭痛くなってきた?喋るほうだってそうだよ。ちょっとの我慢だから。失敗したかな。助けて、ドラえもん!

 小ささって、本当に、最近、考慮しなくてはいけないのね、実際に。今まで、高層建築は大きな揺れの地震に強いと思われてたんだけど、盲点があることがわかった。長周期地震というのがあるんです。これは人間が感じにくい、周期が数秒から十数秒程度のゆっくりした揺れで。マグニチュード八クラスの巨大地震で発生するとされてまして、東京みたいな軟らかい層の平野で増幅して長時間続くものなんです。巨大な構造物ほど長い周期の揺れに共振しやすいんで、逆に、弱いんですね。八五年のメキシコ地震でかなり見られたという記録があるんです。

 そんな現代では、領土を決める境界はvisibleではなく、invisibleになり、より厄介。東西冷戦構造の頃、ベルリンの壁を代表に、超えるべき境界は明確だったが、今のinvisibleな境界には浸透するほかない。壁から膜の時代へ変容している。東西冷戦構造は二つの閉じられた系による平衡状態だったのに対し、それ以降は壁がなくなり、グローバリゼーションという閉じられた系でのエントロピー増大が始まる。あれ?この話、前に言ったっけ?さっきの話も前に言ったっけ?さすがに疲れてきましたねえ。疲れちゃって、もう顔が「疲れた」って顔になってますもの。まいっちゃいましたねえ。ちょっと休みましょうか。

 この辺で、もう一曲、トマソ・アルビノーニ(Tomaso Albinoni)のアダージョ(Adagio)。フェリックスは速度を賞賛していますが、それは速ければよいという意味ではありません。全体を貫くゆっくりとしたリズムやテンポを含む多層性が不可欠です。速いけれども遅く案じられる、もしくは遅いけれども速く感じられるような共生。オーソン・ウェルズが監督した一九六三年の映画『審判(The Trila)』で使われたことで一般に知られるようになりましたから、どこかで聞いたことがあると思います。演奏はジャン=フランソワ・パイヤール指揮、パイヤール室内管弦楽団、オリジナルの録音は一九七五年にパリ・ノートルダム・デュ・リバン教会ですが、今日はリミックス版でお送りします。

 

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 この曲を作曲したのはアルビノーニじゃないと現在では言われています。クラシックでは、結構、こういう話がありまして、発見の際のプロセスでこうなってしまっています。第二次世界大戦中、ドレスデンの図書館から発見されたアルビノーニのト短調のトリオ・ソナタの断片的な手稿をベースに、イタリアの音楽学者レーモ・ジャゾット(Remo Giazotto)が弦楽合奏とオルガンのために仕上げています。緻密な編曲の結果、アルビノーニが書いたような作品となり、そう呼ばれています。一種のパスティッシュです。

 カオスモーズにおける分子革命の実践として──実際には、カオスモーズ提唱前だけれども、カオスモーズからフェリックスの全体像を考えるほうが有意義──、フェリックスはラジオをとりあげている。でも、権力に許可されたラジオ放送じゃない、自由ラジオ放送です。それはスキゾ分析、ミクロ的階級闘争や政治的に破壊的なものとして存在する最小要素の分析に適している。自由ラジオには流動モザイクモデルがある。フェリックスはWWWが普及する前に、この世から去っちゃったから。それもあわせて考えなきいけないだろうね。ブログは自由ラジオの延長線上にある。ラジオは、今日、四tトラックを運転しながら、アイロンをかけながらなど他のことをしながら聴く。でも、最近はタクシーの運ちゃんなんか、お客が乗ってくると、ラジオのスイッチをきっちゃうんだってさ。理由は携帯電話。今の客って、タクシーに乗りながら、携帯かけっから、ラジオの音がうるさいって言われちゃうんだってさ。なんか、さびしいよねえ。ところで、今何をしている?そんなことこの場で言えるかって?ハハハ!もっとも、そんなハッピーな奴は──苦痛ということもあるなあ、『昨日・今日・明日(Yesterday, Today and Tomorrow)』の第一話のマルチェロ・マストロヤンみたいに。しかし、あっこのソフィア・ローレンはかわいい──、後から小突きたくなりますよねえ、ま、聴いてないでしょうけど。でも、この放送が、本当に、無聴衆番組だったら、どうしよう?おいおい、勘弁してくれって、甥は二人もいないんですけどね。今のレイディオ──ラジオじゃないのよ、本当はレイディオ──は集中ではなく、分散のメディアだよね。扇動は集中から生じるよね。ラジオは最初の共時的メディアで、複数の空間を同時につなぎ、チューニングするだけで、別の放送を聴くことができる。音楽だろうと、ニュースだろうと、ワイド番組だろうと。バチカンから国連、ハノイ、キト、メルボルン、テヘラン、ダッカ。沈黙と雑音、混信のメディア。新たなメディアが生まれて発達してくると、それは集中の機能を果たす。新しいために、人々が飛びつき、熱中してしまうからね。でも、しばらくすると、分散する。メディアはその特性に基づき、その過程の中で、役割が限定されていく。今じゃ、映画と言やあ、物語が中心で、もうニュース映画はないでしょ。ラジオはタイム・テーブルにテレビほど厳密に従わなくてすむ。大阪の毎日放送なんか、番組表通りに番組が始まったり、終わったりしない。誤差がある。ラジオは番組制作費が、テレビに比べて、低く抑えられるので、テレビでは視聴率が期待できないために実現が難しい硬派の番組でも可能。それにラジオは地元に密着している。蝮さんが荻窪教会通り商店街に来て、「汚ねえジジイとババアだらけ」と悪態をつくと、笑いが巻き起こる光景はグローバリゼーションに飲みこまれにくい。なんつったって、ラジオには、特にAMには、安っぽさがありますなあ。それは悪いことじゃない。もちろん、全部が安っぽいわけじゃない。『ラジオ深夜便』もあれば、『秋山ちえ子の談話室』もあるから。ラジオはB級メディア。パンクで、オルタネイティブってこと。自由ラジオはそうしたラジオの特質を最も具現化していて、分子革命のモデルを提供している。フェリックスはカオスモーズへ向けた脱領土化のための地図を作成する。地図は実用的でなきゃ意味がない。実用性にあわせて、多種多様な図法がある。海図にはメルカトル図法、面積ならランベルト正積方位図法、航空図には正射図法って具合に。最近じゃあ、GPSもあるから、地図という認識もさらに多様化している。認識、ニン!ニキニキニキニン。ニキニキニキニン。ちょっと古いかな?こんなことに、くじけてはいけない、次いってみよう。新しいネタ、恥ずかしいんですね。地図という観点から見れば、欲望も配置の問題ってわけ。欲望は生産から捉えるべきじゃない。ここがフェリックスはいける。現代人は、根本的に、脱領土化されている。この領土という概念は、そうねえ、通俗的な言い方をすれば、アイデンティティのことかな。国籍や民族、宗教、家族、身体、身の回りの空間は土地に固定化されているわけではなく、不断に変化する安定を欠いた世界の表象にすぎない。ローレンス・レッシグ教授風に言えば、プログラムに組みこみ、情報コードによって人々を規定する社会が到来している。固定化しつつある配置を流動化させよう。非平衡的にね。自由ラジオはその好例。リゾーム、草の根のメディア。それがフェリックスの意見です。

 ラジオがらみで、次の曲。「ラジオ」ってタイトルに入ってるのに、あんましかかんないのはなぜ?どうして!どうして!おせーて!イエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra)、『ラジオ・ジャンク(Radio Junk)』。

 

Don't think

It's a only trick

A bottle of bear makes the head clear

 

Don't waste my time

 

Feed the box a dime

Fill me with radio junk

 

Radio junk radio junk

Filled up with radio junk

 

Some days are all the same

Like a face in a crowd in a tow-bit town

No action

No reaction

Just fill me with radio junk

 

 何を言ってるか、意味がさっぱりわかんない。クリス・モスデルの歌詞だもん。そんなもんさ。「考えるな」って言ってるし。でも、それって、あり?

 ラジオの放送が始まって、日本は八〇周年だけど、かれこれ一〇〇年近くになる。一九〇八年、リー・ド・フォレスト(Lee de Forest)がエッフェル塔からラジオ放送を行ってます。一九二〇年一一月二日、アメリカのピッツバーグで開局したウェスティングハウス・エレクトリック社のKDKAが世界初のラジオの実験放送をするんですね。それはウォーレン・G・ハーディング大統領の選挙結果の報告。トーマス・エジソンのライバルだったジョージによって創立された会社はラジオ受信機を売るために、放送を本格化させ、一九二二年に本放送を開始する。二〇年代には、交流の推進者の野望通り、アメリカを中心に、ラジオのブームが起きている。ラジオは、最先端のメディアであり、最もオシャレな小道具。今のテレビと同じように、お気に入りの番組をみんな持ってて、その時刻になると、ラジオの前にいて、それが次の日の話題にもなってます。アボット&コステロといったコメディアンを全米規模のスターにしたのもラジオ。ジャズはラジオと切り離せない。Da, da, da, di, do, de, do♪そんなラジオは、一九三八年一〇月三〇日、オーソン・ウェルズ(Orson Welles)によるHG・ウェルズ(Herbert George Wells)の『宇宙戦争(The War of the Worlds)』の放送によってその影響力の大きさを見せつける。あのパニックはライバル番組の一割程度の聴取率しかない番組が引き起こしたもの。まあ、うちよりも、聴かれているでしょうけれど。こっちはミニミニ大作戦だから。ハーバート・ジョージよりもオーソンはeが多い分、その声は遠くまで大勢の人々に届く。E? Electrical echo.

 ラジオのリアリティはいかにリアルな効果音をつくり出せるかにかかっている。オーソンの番組はうまくSEを挿入して、臨場感を高めています。日本でもQRの玉井和雄さんなんて名人もいる。ラジオの競馬中継のゲートの開く音と蹄の響きは、実は、SE。ゲートの位置は距離によって違うし、蹄の生音はすべて拾えない。ただし、こういうのは競馬の中継だけ。野球やサッカー、競艇なんかは集音マイクで拾った音を放送に流してますよ。

 二〇世紀の前半、ラジオは歴史的瞬間を伝えている。一九三七年五月六日、ヒンデンブルク号が突然炎上したのも、一九四一年一二月七日の早朝、日本海軍による真珠湾攻撃を全米に報道したのも、一九四五年八月一五日の正午、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」と敗戦を日本国民に伝えたのも、ラジオ。シャルル・ド・ゴール将軍は、ラジオを通じて、第二次世界大戦中、ロンドンからレジスタンスを呼びかけ、アルジェリア独立戦争に際し、フランス軍兵士に軍事行動の自粛を促している。ラジオは政治的なメディアとして利用された歴史を持ってるんです。ナチス・ドイツは、一九三〇年代、ファシズムを宣伝し、東西冷戦下、両陣営共に仮想敵国の住民へ向けたプロパガンダを放送し──お互いにジャミングをかけあってっから、結局、何も聴こえないけど──、冷戦終結後の一九九四年、ルワンダの国営ラジオはフツ族虐殺を扇動している。戦争中に、航空機から放送を行い、敵兵に投降を促す声の爆弾なんてものもある。声のアタックです。「ジェットストリーム・アターック。今晩は。細川俊之です」も真っ青って感じ。

 一九五〇年代を舞台にした、つまり「郊外」ね、アメリカの小説では、ラジオが重要な小道具。持っているラジオがその家庭の経済状況を暗示させる。金持ちはピッカピッカのメタルな高級ラジオで、貧乏人はプラスチックの安物って感じ。今なら、何だろ?自動車?で、ジョン・チーヴァーの『巨大なラジオ』には、隣近所の夫婦喧嘩が聴こえてくるってラジオが描かれている。裕福で幸せそうに見ても、内実は…ね。日本でも、聖日出夫さんが『生徒ドンマイ』で、聖さんは受験ものを描かせるといいですな、未来を聴ける短波ラジオ──模試の問題がわかるって奴──を登場させている。これが日米の違いかな。アメリカは家族生活、日本は受験。そんで、スチュアート・ダイベックの『ペット・ミルク』には、シカゴに住む貧乏な祖母のラジオからギリシア語とか、スペイン語とウクライナ語かがかすかに混信してるって描写がある。ラジオは混信しつつも、共生してる。どこか開かれている世界だから、混信によって平衡に達し得ない。混信がラジオにおける非平衡性。

 日本では、戦前、政府が民間放送を許さなかったけれど、一九五〇年に電波法が改正されて、翌年の九月一日から民間ラジオ放送が始まっている。大阪の新日本放送と名古屋の中部日本放送が最初だがね。新日本放送は今の毎日放送のことやね。一九六〇年代、中波の深夜番組によって、ラジオは若者をつなぎ、ゲリラ的な活動の道具としても機能しているんですね。『オールナイトニッポン』や『パックインミュージック』、『セイヤング』あたりが有名。局アナがアイドル歌手並みの人気を博して、LFの亀淵昭信社長もその一人。

 しかし、空回りし続けてるよねえ。喋っているときは、面白いんだけど、後から聞き直すと、恥ずかしくなるほど、つまんないことってよくあるんですね。「聴いてちょんまげ」なんて言っても、そのときはいいんだけどねえ。第一、声。声が気に食いませんもの。鼻声で。活舌甘いし。武具馬具武具馬具三武具馬具合わせて武具馬具武具馬具六武具馬具。坂信一郎さんみたいな声だったら、人生変わってましたですね。オヨヨ。

 テレビの衛星放送やインターネットが本格化するまで、短波ラジオが国境を超えるメディアとして機能している。受信報告書を放送局に送って、ベリカード(Verification Card)を集めるBCLが一九七〇年代にブームになって、山田耕嗣さんが、今風に言うと、その「カリスマ」かな。一九七八年一一月二三日、日本のAMの周波数の間隔が10kHzから9kHzへと変更されてる。それまでは、結構、同じ周波数帯を使っている局が多く、夜になると混信することも多く、その状態を改善する目的があったわけ。中波は放送周波数の上下4kHzの振幅があるため、隣の周波数帯の局と混信しないには、最低9kHzが必要。でも、ラジオは過去のメディアなんかじゃありません。そりゃあ、一九五二年に始まったNHKのラジオ・ドラマ『君の名は』みたいに、「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」なんてことは、日本じゃあもうない。世界的に、デジタル・デバイドの問題が広がっているけど、最もシンプルな電波メディアのラジオはメディア・リテラシーには有効だ。考えてみれば、ちょっと違うけど、日本にも、『大学受験ラジオ講座』や『百万人の英語』なってのもあったねえ。JB・ハリス先生。Oh, I’m sorry to hear that.QRに教育番組が多かったのは大株主が旺文社だったんで、テキスト販売と自社のイメージ戦略のため。ただ、今は資本関係はない。ぜんぜん違うか。ごめん、浮かんだことは口に出さずにはいられない性質で。悪い癖だ。まったく余計なことを言っちまうんだよな。九・一一以降のアフガニスタンで最も信頼されていたのはBBCによるパシュトゥン語のラジオ放送。ラジオは、テレビと異なり、送信システムは比較的簡単な構造で、仮に地震や津波などで放送局が破壊されても、肩に担げる程度のサイズの小型送信機からの放送も可能。実は、中に白木みのるさんが入ってんだけど。これを生かして、災害発生時には臨時ラジオ局が開設されることがある。阪神大震災ではラジオがその威力を発揮してたよね。ミニFM局が、日本でも、数多く開局して、日本に居住する外国人のための情報交換やコミュニケーションを提供している。大沢悠里さんはディレクターにキュー振りするし。テレビじゃ、ちょっとない。また、受信機の構造も簡単だから、乾電池やゼンマイで動く小型のものが安価で購入できる。鉱石ラジオとかゲルマニウム・ラジオって知ってる?知らざぁ言って聞かせやしょう。アンテナとアース、コイル、バリコン、イヤホン、ダイオードさえあれば、ラジオってできるのよ。ただ聴くだけなら、ラジオに電力も必要じゃない。電波が受信できれば、いつでもどこでも放送を聴くことができる。

 だから、ラジオはノマドなメディアです。ノマドロジーは移動の思想だと理解されているけど、それは表面的。遊牧民(Nomads)は草と水を求め、家畜と共に各地を移動する。草で覆われた小屋や天幕など移動が容易な家で仮住まいをしています。オーストラリアのアボリジニやカラハリ砂漠のサンなどの狩猟採集民からロムなどの雑業的な放浪民まで含まれている。彼らの多くは乾燥地帯に生きているけど、それは安全だからです。人間にとって、最も危険なのは人間自身。政治組織・体制からの干渉は真っ平だ。でも、国民国家は遊牧民に定住を強いる。大人は国民として選挙を通じて政治的意思を表明し、国家に税金を納め、子供は小国民として学校に通学しなければならない。遊牧できないなんて、もう、イヤ、こんな生活!遊牧民の移動途上にある定住社会では規模の大きい経済活動が行われていて、遊牧民も多かれ少なかれそれに組みこまれている。彼らは自給自足の民じゃない。遊牧生活で育んだ生産物を売り、穀物や衣類、武器などの商品と交換するとしても、もっと多くの商品を産出して、市場に積極的にかかわろうとしない。遊牧生活なら、優先順位を自分たちで決定できるし、家畜を短期的な利潤ではなく、長期的に利用できる。頻繁に移動するには、荷物をできるだけ少なくしたほうがいいでしょ。身軽に!身軽に!確かに、最近のキャンピング・カーにはテレビも風呂も冷蔵庫もついてるけど、家畜を連れてけないでしょう?私的所有物を極力減らし、物を共有ないし借用するようにするんですね。牧畜と遊牧の違いは前者が土地の私的所有に基づいているのに対し、後者では土地が共有であるという点にある。ですんで、ノマドロジーは共有・借用の思想。I’d rather be a hermit crab than a snail

 近代以前、世界的に、伝統的支配では、所有は重層的だったんです、そもそも。所有権と利用権が未分割なんです、要するに。近代だと、土地の所有権は地主のもので、小作人はそれを借りて利用している図式です。小作人は利用権を持ってるだけです。領主が持っている土地を農民が使うんですけど、その農民も地主と小作人に分かれていて、小作人自身が耕作した土地はその人のものなんです。その収入が馬鹿にできないくらいあって、日本は、近代以前から、観光旅行が盛んだったんです。要するに、物見遊山ですね。小銭もたまって、どっかにいきたいなと思っても、昔ですから、自由にそうもいかない。それで、集落の代表として、ありがたい旧所名跡にお参りにいくということにしたんですね。そういうとこの周りにはいかがわしいとこが発達したのも、そのせいです。見学は二の次ですんで。だから、いったら、旅の恥はかき捨てで、ご近所へのお土産を買っていかなければならないんで、お決まりのものを用意する業者が生まれたんです。観光産業が発達してたんですね、こんなこって。あんまし、今と変わんないでしょ。

 話が前後するけど、日本では、伝統的に「入会地」というのがあるんです。最近だと、「コモンズ(Commons)」という社会学の用語で呼ばれることも歩けど。クラブの入会なんかの「入会」と書いて「いりあい」と読むんですけど。例えば、藩主の命令で、藩境防衛の目的に武士一〇〇人をとある村に住まわせたとしましょう。そういう村落共同体が入会集団です。そこに、森があったとすると、その人たちは共同所有・共同使用にするのです。入会地のある農村の配置は、概して、同心円構造をしてます。集落を中心として外側に耕地、その外帯に私有林野が広がって、入会地はさらに外、最も外側にあります。森のここはうちのもので、あそこは隣のものだということもありません。森のどこから薪を拾おうが、どれだけ拾おうが自由なんです。当然、ルールはありますよ。成文化していることはほとんどありませんで、慣行です。一日に森に入っていいのは、一家族一人までとかいう風に。だから、分割も譲渡もできません。それを何かに他の目的に利用しようとしたら、全員一致が原則です。「あいつが賛成なら俺は反対だ」みたいな変なことを言う人がいた場合、無視するでしょうけど。その集落から転居すれば権利を失うし、逆に、そこに引っ越してきたからといって、入会権をもらえるわけじゃない。その集落を発展させるようなことを一緒に担って、それを他の人たちから認められて許可される。そんなこったから、入会地の登記は、もちろん、できるわけない。所有権として登記はできるんですけど、実際の入会権とは異なってしまうんです。入会慣行は、近世以降に発展したと考えられています。戦乱の時代が終息すると、農業の復興し始めて、農業生産量を増やすために、集団農業が効率性の向上に不可欠だったんです。それに、生活に密着してます。木の実や山菜、キノコなんか食料の採集、燃料に使う薪や炭の生産、家畜用の秣の調達や放牧、家屋の資材、つまり木材や萱とかもそこで集めたんです。明治民法にはほとんどその記述がありません。ないわけじゃないんですけど。確か、二箇所。民法第二六三条と二九四条。でも、現実に、トラブルがあるわけですから、数々の判例が出されています。国有地にも入会地が多くあります。漁場に関する漁業権・入漁権・入浜権、水源・水路についての水利権、泉源・引湯路をめぐる温泉権も、類似の法構成をとってたりして、判例・解釈等が準用もしくは参考とされたりしています。マンション管理における共益設備についても類似の法構成と解釈もされているんです。環境問題とかを考える場合、「ゲベーレ(Gewere)」の国ドイツが共有や借用を通じて環境問題に取り組んでいるように、現代的な入会権を考察すべきじゃないでしょうか。

 ラジオから流れてくる曲と言えば、歴史を考えたら、やっぱりこれでしょう。ワリーネ、ワリーネ、ワリーネ・ディートリッヒじゃなくて、マレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich)、『リリー・マルレーン(Lili Marleen)』。

 

Vor der Kaserne

Vor dem großen Tor

Stand eine Laterne

Und steht sie noch davor

So woll'n wir uns da wieder seh'n

Bei der Laterne wollen wir steh'n

Wie einst Lili Marleen.

 

Unsere beide Schatten

Sah'n wie einer aus

Daß wir so lieb uns hatten

Das sah man gleich daraus

Und alle Leute soll'n es seh'n

Wenn wir bei der Laterne steh'n

Wie einst Lili Marleen.

 

Schon rief der Posten,

Sie blasen Zapfenstreich

Das kann drei Tage kosten

Kam'rad, ich komm sogleich

Da sagten wir auf Wiedersehen

Wie gerne wollt ich mit dir geh'n

Mit dir Lili Marleen.

 

Deine Schritte kennt sie,

Deinen zieren Gang

Alle Abend brennt sie,

Doch mich vergaß sie lang

Und sollte mir ein Leids gescheh'n

Wer wird bei der Laterne stehen

Mit dir Lili Marleen?

 

Aus dem stillen Raume,

Aus der Erde Grund

Hebt mich wie im Traume

Dein verliebter Mund

Wenn sich die späten Nebel drehn

Werd' ich bei der Laterne steh'n

Wie einst Lili Marleen.

 

 その簡易さのために、ラジオの海賊放送は昔から多い。「海賊放送(pirate radio)」は、CDDVDの「海賊版(pirated version)」と同じように、比喩的表現だけど、実際に、船に送信機を積みアンテナを展開して出航、どこの政府の規制も受けない公海上から放送を行なってる局もあります。海賊放送の中には、対立国の政府から支援を受けていたり、放送団体や送信所の所在地を偽装している局もあるんですね。こういう放送の場合、たんにプロパガンダの手段だけでなく、エージェントなどへの暗号通信にも使われてる。Good morning, Mr. Philips. Your mission is to broadcast “Chaosmos”. This radio will self-destruct in 5 seconds. Your mission should you decide to accept it Good Luck, Jim!

 そういった暗号通信の中で、海賊放送じゃないけど、最も有名なのが、ポール=マリ−・ヴェルレーヌ(Paul-Marie Verlaine)の『秋の歌(Chanson d'Automne)』の一節。ノルマンディー上陸作戦の暗号に使われています。

 

 Les sanglots longs des violins de l'automne, blessent mon coeur d'une languer monotone

 

 もっとも。これは日本では上田敏による『落葉』という訳詩で知られていますなあ。格調高いですよ。聞いたことくらいありますかしら。

 

 秋の日の ヰ゛ィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。

 

 この海賊放送が自由ラジオに発展したわけ。海賊放送は、結構、ヨーロッパで多い。もっともさ、タイあたりにいくと、ラジオを運営しているのは陸軍だったりする。あそこは軍と警察の利権抗争がすごくてね。アメリカは、いつもの通り、国営放送がないし、自然発生的に放送局が無数に生まれているから、「海賊」にならない。かなりのヨーロッパ諸国の当局は国営放送しか認めていなかったから、自由な放送を求めて、市民がラジオ局を開設したという背景があるんです。当局も取り締まってはいるものの、効果があがるはずもないんで、現在でも多数海賊放送が存在するってわけ。中には、CMを流して、事実上の民間放送となっている放送局も少なくない。また、今ではフランスなんかでは海賊放送を法的規制を加え、合法化しちまってます。

 そうそう、この番組はリクエストを受けつけていなーい。原則的には。もちろん、無着成恭先生もいないから、電話相談されても、何も答えられませーん。ダイヤル、ダイヤル、子ども電話相談室♪リクエストに応えたら、『恐怖のメロディ(Play Misty For Me)』のDJデイブ・ガーランドのように、ストーカーに追いかけられることを心配しているわけじゃない。これはクリント・イーストウッドの監督デビュー作で、ドン・シーゲルに影響を受けたサイコ・サスペンス。シーゲル監督も友情出演してますね。イーストウッドは、監督として、短観上映向きの作品をとるけど、いっちゃん最初からそういう傾向がある。DJはセンスよく選曲して、リスナーに提示するもの。でも、これがラジオのよさってもの。多分、ラジオは喋りに一番脈絡がなくても平気なメディアだ。これだけ断りもなくポンポン話題が変わっちゃあ、普通の会話だったらついていけないけど、ラジオなら問題じゃない。ウェブだって、それはだめだ。あれは文書、活字メディアの延長だから、情報量が一ページあたり多いほうがいいんで、ハイパーリンクならともかく、飛躍ばかりだと混乱しちまう。ラジオは自由連想法が許されている。フェリックスが指摘している通り、スキゾ分析にはもってこい。フェリックスの文体は、印象的なフレーズは頭に残るものの、リゾームのように、錯綜していて、自由連想法的で、何を言いたいのかつかめないことも多いですね。ラジオで放送されたのをそのまま、原稿に起こしちゃっても、使えない。雑誌のインタビュー記事ってあるでしょ、あれは一分四〇〇字詰め原稿用紙一枚程度なそうだ。もち、個人差も激しいらしいけど。ラジオの喋りは一見したところでは、見るってのもおかしなことだけど、アナーキーでも、自己組織性がある。カオスだ。不特定多数の顔もわからないリスナーに一方的に喋り続ける。具体的な誰かを相手にしているわけじゃないから、リスナーは語りかけられているのは自分だけじゃないと思いつつ、どっか具体的な感じがあるから、自分自身に話しかけられていると感じる。ラジオは共有のメディアだ。そう感じてる?だから、話が飛んでもOK牧場!フライング・メディア。飛びます!飛びます!

 しかし、自由連想法といいますが、何やら、ボケる過程によく似てますなあ。まず、だいたい、名前が思い出せなくなりますでしょ?今の人、誰やったかなあ、挨拶されたけども、はて、どこかであった気が、ああ、ほら、あれや、ウナギに似とって、甘辛くして寿司にする魚、ほら、あれ、なんやったかなあ…そやそや、アナゴって感じで、思い出しまっしゃろ?魚は忘れなくても、アナゴは思い出せない。固有名詞や個別の名前から記憶から失せて、集合名詞が次なんでしょうが、代名詞は忘れんですなあ。「あれ」とか「これ」とか、人生の先輩の夫婦なんか代名詞だけで会話してますものなあ。忘れても何も困ってないように見えるところがすごいですなあ。知識・思考・感情という順番で記憶から消えていくんでしょう。でも、感情を思考が利用するなんてことはよくありまして、ナショナリズムなんてそうですし、ヤクザの社会なんか、攻撃的にしてないとなめられるから、わざとそんな姿勢とってますでしょ。ボケって一種パターン化することじゃないですか。自由連想法はそうした記憶の構成を探る試みなんでしょうなあ。ボケって年寄りだけじゃなくて、若い人にもある問題ってことでしょう。すごいワンパターンな純愛の小説やテレビ・ドラマが流行するというのもボケの一種じゃないっすか。ボケも笑いを誘える程度ならおもろいからええけど、それ以上だとかなわんですなあ。まあ、そう言ってもしゃあないすけどね、起こるもんは起こるんやから。

 ああ、そういや、空飛ぶ聖座が亡くなりましたなあ。アーメン。一度くらいはお目にかかりたいと心の準備だけはいつも欠かしていませんでしたが。ポーランドの連帯の活動におけるローマ法王の功績から切り出そうと思ってたんだ。東西冷戦構造の中でカトリック教会の過去を清算した人だったよね。でも、あの人は大きな革命の時代にその意義を示せたけど、今みたいな小さな革命の時代には向かないねえ。コンドームもだめっつんだから。甲子園球場の七回裏の攻撃の前を見たら、卒倒したかも。「なんてことを!コンドームを天に向けて放すなんて」。いや、逆に、喜んだかも。「そうです。コンドームなど私たちの手元からなくさなければなりません」。なんだって物事は見方によりますからね。

 日の丸って、聖徳太子が隋の皇帝煬帝へ送った「日出処の天子、書を日没処の天子へ致す。恙無きや」という書に由来してんでしょ?そんで、それを外国に卑屈にならず、強気に出て、痛快にもハッタリをかましたと信じてる人が多いけれど、むしろ、隋の側は「ずいぶんと礼儀を知らんもんですなあ。馬鹿につける薬はないと言いますからなあ」と呆れてたわけ。向こうは余裕よ。ユーモアとして、日の丸を国の旗にしたってなら、面白いんだけどね。考えてみれば、江戸時代だって、主権在民はともかく、天皇は象徴制だったようなものです。天皇は政治参加することなく、象徴的な存在として京都にいたわけです。むしろ、明治に入ってから、欧米に負けない国家になるべく、元首として政治権力を発揮したのであって、戦後、伝統的な天皇制に回帰したように思えます。日本では、天皇は、多くの場合、口実です。それは東アジアの中心があくまでも中国であり、日本は辺境ということから生じているんですね。中国は東アジア文化圏の中心として振舞わなければならないため、本音と建前は一致して示さなければなりませんが、日本は所詮田舎ですんで、その辺が曖昧でも誰も気にしないんですわ。

 「太陽の代わりに音楽を、そして青空の代わりに夢を」。知ってる?伝説的なDJ糸居五郎さんのセリフ。「パーソナリティ」という名称を拒否し続け、「DJ」に誇りを持っていて、オランダの海賊放送局の船、メボ2000号から生放送したこともある偉大な、偉大なDJです。”Go Go Go and Goes On!”戦時中も、武田泰淳さんばりのほめ殺しで、敵性音楽のジャズをかけたって、気骨の人。「ディスク・ジョッキー(Disc Jockey)」という呼び名はレコード盤、ディスクをターン・テーブルに載せる姿が競馬のジョッキーに似ていることから、あるいはレコード盤を交換しながら次々に曲を掛ける姿がディスクを乗りこなすジョッキーになぞらえたことから、生まれています。ラジオ番組では、音楽よりトークを重視する番組の場合、パーソナリティと呼ばれるのね。他に、東京のFMJ-WAVEの「ナビゲーター(Navigator)」、神戸のFMKiss-FMの「サウンドクルー(Sound Crew)」というように独自呼称を使っている局もあります。あの方がリクエストに応えたのは、知られている限り、ただの一回だけ。ヘルメット姿の学生が元気だった頃、バリケードの中の学生からそれを包囲する警察へ映画『刑事(Un Maledetto Imbroglio)』のラストに流れる『死ぬほど愛して(Sinno Me Moro)』をリクエストしたとき。学生たちのユーモアに微笑んだというわけ。DJに必要なのはユーモア。ユーモアを忘れずにしなきぃけません。

 『刑事』のラスト。忘れられないなあ。殺人に関係のない人たちがお互いに相手が殺したと思っている。そこにパトカー。ニーノ・カステルヌオーヴォ(Nino Castelnuovo)が扮した女中の許婚の電気屋ディオメデ(Diomede)が逃げる。捕まって、パトカーで連れて行かれる。怖いね。一九五九年のイタリア映画。監督・主演はピエトロ・ジェルミ(Pietro Germi)。『鉄道員(Il Ferroviere)』のあのピエトロ・ジェルミ。無骨で、サッカー選手のクリスチャン・ヴィエリ(Christian Vieri)みたいね。共演がクラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale)。デビューしたばかり。まあきれいだこと。彼女はこの映画からスターになっていくのね。そんなわけで、『死ぬほど愛して』をかけましょうね。

 

Amore amore amore

Amore mio

IN braccio a te me scordo ogni dolore

Voglio restare con te sinno" me moro

Voglio restare con te sinno" me moro

Voglio restare con te sinno" me moro

 

Nun piagne amore

Nun piagne amore mio

Nun piagne e state zitto su sto cuore

Ma si te fa soffrire, dimmelo pure

Quello che mai da dire, dimmelo pure

Quello che mai da dire, dimmelo pure

 

 フランスの「自由ラジオ放送(la radio du livre)」は海賊放送としてフランス中に拡散・浸透したけど、フランソワ・ミッテランの社会党政権が成立すると、この電波法違反を黙認し、国営放送局によって独占されていたFM放送帯に、民法、自治体の放送局、各種運動・趣味の私設放送局が参加し始めています。一九八一年の政権成立後の数ヵ月間だけで、パリなどの都市に放送設備を売る店がオープンし、五〇〇〇フランもあれば──当時の為替レートはいくらだろう?多分一フランス・フランが一〇〇円もしないはずだから、五〇万円以下──送信機材を手にできるようになったから、その七月には、パリだけでも二五〇〇以上の自由ラジオ局が生まれている。通信相ジョルジュ・フィリウが新しい電波法の草案を提出して、翌年の春、国家による電波の独占が撤廃される。ただ、このとき、フェリックスは電波の自由化がその商業化ないし道具化になりかねない危険性を警告している。自由化はしばしばまやかしの多様化になってしまう。非線形的な自己組織化ではなく、線形的な支配。自由ラジオは電波の民主化、すなわち受信者がいつでも送信者になるこの絶え間ない反転において意義がある。電波のゲリラというわけ。また、イタリアでは、一九七六年以降、電波の到達距離が一五kmを超えず、一〇万人以内の視聴者の放送局であれば、所轄の警察に登録するだけで誰でも開設できるように規制が緩和される。自由ラジオのみならず、自由テレビも出現して、翌年にはテレビ局が一〇〇局ぐらい、ラジオ局に至っては、一〇〇〇局も誕生している。これって、CATVでも、デジタル放送でもないよ。出力が弱いだろうけど、それにしたって、夜の中波は混信状態だよね。その中に、ボローニャのラディオ・アリチェ(Radio Alice)というのがあるんだけど、これは代表的なアウトノミア運動の放送局。アリチェは英語のアリスのこと。こう名乗る自由ラジオ局は、日本ではバンドの名前だけど、「ありがっとう」、ヨーロッパに少なくない。アイルランドにもありますですね。こうした電波の自由化は、たんにラジオやテレビの視聴者を受け手から送り手に変えるだけでなく、分子的な群れの出現、自己組織性の顕在化。一九七四年に始まり、一九七七年にピークに達した工場や都市、学校などで起ったイタリアのアウトノミアは、一つの組織ではないし、むしろ、自己組織性を持ったアンサンブル。今のホームページのように、いろんな組織が変動しつつ、ある種の総体を構成していて、これを可能にしていたのが自由放送局というわけ。自由放送はアウトノミアの性格を具体的に表現しているんで、それをめぐる人間関係やコミュニケーションのモデルになっているんです。

 アウトノミアの革新性は、それらが連帯してなかったこと。つまり、ネットワークでさえなかったてわけ。お互いに共鳴しあっていただけで、手をつないで連帯してはいないのね。都市におけるゲリラ活動の非線形的な引き込み現象。そうねえ、invisibleなネットワークと言えなくもない。最近、反米的な抵抗運動やイスラム主義者によるテロが世界規模で行われているけど、手法は別にして、ある意味で、彼らはアウトノミアのスタイルを知らずに復活させている。非線形的引き込み現象。世界各地で、「アルカイダ」を名乗る団体、下手をすれば個人なのかも、ウサマも著作権や商標、特許権を要求してもいないから、まったく関係のないのも無数にある。もっとも、それはモダニズムですでに見られます。モダニズムでは世界中の各都市で、ベルリンやパリ、ニューヨーク、東京、上海みたいに、芸術家や作家たちにシンクロニシティが起きています。ポストモダニズムはモダニズムのパロディみたいなところがあるんです。そう考えると、「カオスモダン」が最適ですね。よし、決定! 「カオスモダン」。「決定!全日本歌謡〜選抜」。小川哲哉さんなら、「『カオカオ』って呼ぼうかな」って感じ。

 今のアルカイダ現象もアルカイダ主義みたいなもんじゃないかな。こういうのって、思想にはつきもの。「マルクス主義」っていったって、別に、マルクスと直接関係のないものがほとんどだしね。カール本人が「私はマルクス主義者じゃない」と言っているくらいだから。

 携帯電話もある種のアウトノミアと言えるんじゃないでしょうか。アフリカでは、今、全人口の一割が携帯電話を持っています。全通話の四分の三が携帯電話と見られていて、世界で最も携帯電話事業の成長が見こめる地域なんです。ちなみに、固定の普及率は全アフリカで三%ですからすごいでしょ。固定電話事業は大半の国じゃあ政府や公社に独占されていて、政治腐敗の温床の一つです。ところが、携帯電話となると、四分の三の国で、民間企業が請け負ってるんです。通話範囲もアフリカ全土の六割をカバーするし、スーダンのダルフールやソマリアといったやばい地域でも通じるというから驚きです。通話料金は固定に比べて高いんですけど、インフラはさっぱりだし、契約にも時間がかかりすぎるので、みんな携帯の方に向かうんです。もちろん、全体的に所得は低いんで、その人たちに合わせたサービスを各社とも提供しているんですね。携帯回線を使った割安の公衆電話や無料メールを使ったコレクト・コールなんかその一例です。日本でも普及し始めはそうだったけど、利用者もお得に使えるように工夫してます。

 「カオスモダン」の今じゃあ、無数のインターネット・ラジオが開設されているけど、その多くは固定的な少数のリスナーを除けば、聞き流されているだけだよね、はっきり言って。マーケッティングもノウハウもないから、しゃあねえよね。自然発生的な時期に雨後の筍の如くわれもわれもとみんな始めてね、ほんの一握りだけが成功して、大部分は消えていくんだけど、それは地の塩になる。うちもたいして変わんない?そうね。あなたたちも世間と同じよ。いやあねえ。期待したほうが馬鹿だったわ。結局、偏見には勝てないのね。あなただけは別だと思ってたわ。でも、いいの。強く生きていくから。いつまでたっても、だめな私ね。女に生まれて、きたけれど、女の幸せ、まだ遠い♪なんてことを言っている場合じゃない。

 そんなあなたのために、次は日本のラヂオ史上最も有名な中継をお送り致します。NHKのアナウンサー河西三省さんの名実況。ラヂオ界の大先輩であります、一九三六年八月一一日に行われたベルリン・オリンピック競泳女子二〇〇m平泳ぎ決勝での前畑秀子嬢の活躍をこう伝えております。

 

…ターンしました。ただいま、ターンしました。わずかにリード。前畑がんばれ、がんばれ、がんばれ。あと40、あと40。前畑リード、前畑リード。ゲネンガーも出ております。ほんのわずか、ほんのわずか。前畑わずかにリード、前畑がんばれ、がんばれ。あと25。わずかにリード、わずかにリード。前畑がんばれ、がんばれ前畑。ゲネンガーが出ております。危ない、がんばれ、がんばれ、がんばれ、前畑リード、前畑リード、前畑リードしております。前畑がんばれ、前畑がんばれ。リード、リード、あと5メートル。前畑リード、リード、リード、勝った、勝った、勝った、前畑勝った。前畑勝ちました!前畑勝ちました!前畑優勝です。前畑優勝です…

 

 中継と言うよりも、応援であります。今でも、オリンピックやワールド・カップがらみの中継がこうなってしまうのであります。それにしましても、これは草野心平氏を思い起こさせるようなまるでダダイズムの詩と言っても過言ではないと申し上げます。

 逆もあるのであります。「志村アナ凡プレーまで美技にする」という川柳が新聞にも載ったNHKの志村正順アナが「別所、豪快に振りかぶって投げた。川上、打った。唸りを生じて投げこまれた内角高目の豪速球、川上、ハッシと打って三塁ゴロ。むずかしい当たりであります。山本、燕のように身をひるがえして捕って一塁へ送球。飯田、蛸のように長く足を伸ばして捕球、アウト。間一髪アウト。満場、思わず、息を呑んでおります」と華麗に実況しますと、すかさず、別当薫さんが二塁を回って三塁に滑りこむ美しさを「感に堪えぬ」と称えた小西得郎さんが「まあ、なんとー申しましょーかー、打ちも打ったり、捕るも捕ったりという名プレーであります」とコメントをつけ加えるのも忘れない。これは優勝決定戦の歴史的ファイン・プレーではありません。とあるホークス対ジャイアンツ戦でのただの平凡なサード・ゴロであります。深沢弘さんとか戸谷真人さんとかのご先祖様であります。志村さんと小西さんはこの調子で一試合通すのであります。感に堪えません。それでも、雨の神宮外苑競技場の学徒出陣壮行会を中継した志村先輩に言わせますと、伝説の和田信賢アナウンサーの足元にも及ばないのですから、今のアナウンサーは自分自身をそう呼ぶことさえ恥ずかしいくらいであります。アメリカでありますと、無料で、過去の著名な実況をネットを通じて聞けるのですが、残念ながら、日本ではそういうアーカイブはまだまだ未整理であります。

 只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願います。天皇陛下におかれましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これよりつつしみて玉音をお送り申します。

 

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ 忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵カス如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ交戰巳ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス

加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル

而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ

斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ

是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス

帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク

且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ

惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス

爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル

然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ大平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ

若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排儕互ニ時局ヲ亂リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム

宣シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ

爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

 

 謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります。これは日本において最も歴史的なラジオ放送であります。

 でも、たんに自然発生的なだけじゃだめだよ〜。自己組織性がなきゃいけません。アウトノミアってのはこの自己組織性に基づくカオスの体現。自由ラジオの場は均質じゃない主観的な送信者=受信者によって自発的につくり出される多元的でものでね、それを唯一の中心に集約することはできない。資本=情報の論理は、あらゆるものを多様化=細分化するけど、均質性を前提にするでしょ。動かしてみなきゃ、どうなるかわからない量産のラジオを買う?そういうこと。ニュートン的理想の実現化。均質的な多様化は線形的なものでしかない。

 次の曲はラジオに捧げよう。クイーン(Queen)、『ラジオ・ガ・ガ(Radio Ga Ga)』。

 

I'd sit alone and watch your light

My only friend through teenage nights

And everything I had to know

I heard it on my radio

Radio.

 

You gave them all those old time stars

Through wars of worlds -- invaded by Mars

You made 'em laugh -- you made 'em cry

You made us feel like we could fly.

 

So don't become some background noise

A backdrop for the girls and boys

Who just don't know or just don't care

And just complain when you're not there

You had your time, you had the power

You've yet to have your finest hour

Radio.

 

All we hear is Radio ga ga

Radio goo goo

Radio ga ga

All we hear is Radio ga ga

Radio blah blah

Radio what's new?

Radio, someone still loves you!

 

We watch the shows -- we watch the stars

On videos for hours and hours

We hardly need to use our ears

How music changes through the years.

 

Let's hope you never leave old friend

Like all good things on you we depend

So stick around cos we might miss you

When we grow tired of all this visual

You had your time, you had the power

You've yet to have your finest hour

Radio -- Radio.

 

All we hear is Radio ga ga

Radio goo goo

Radio ga ga

All we hear is Radio ga ga

Radio goo goo

Radio ga ga

All we hear is Radio ga ga

Radio blah blah

Radio what's new?

Radio, someone still loves you!

 

 グローバリゼーションというエントロピーが増大し、平衡に達するべく均質化へと向かっている。それは閉じられた系を前提にしているんです。だから、フェリックスは非均質的な開いた系における非平衡の生成としてカオスモーズを提起する。「非(Non)」は対抗概念じゃないのです。むしろ、それが先にあるんですなあ。自由ラジオのようなアウトノミアはエントロピー増大に従わないリポゾームであり、「自律」は「自己組織化」を意味する。人はそれぞれ思惑や立脚点が違うから、そこに目を向けなきゃ行けない。政治的・社会的な変革ってのはさ、その上で、意思決定過程の改定と人民のエンパワーメント(Empowerment)をするってこと。アウトノミアはそのための場。自己組織的な生成による非平衡革命がフェリックスの言う分子革命であって、それこそが長く冷たい革命として世界を変える小さな革命。

 あら、あなた、デジタル放送って知ってる?いやだ、知らないの?だめよ、あなた、無知ねえ。未来のラジオや。知っておいたほうがいいわよ。でないと、馬鹿にされちゃうわ。二〇〇六年から、日本じゃ、東京と大阪で始まるのよ、あなた、地上波デジタル・ラジオ。それを聴くには、専用の受信機が要るから、ま、知らない人が多くても仕方がないわね。いずれ、今のデジタル家電や携帯電話に内蔵されるようになるでしょうよ。ほら、あなた、ビジネス・チャンスだから、金儲けするのよ。音質は今の音楽CD並みで、ちょっとした画像や動画も見れるから、専門チャンネル番組の放送やデータ放送が考えられてるわ。デジタル・ラジオは、その意味じゃ、ラジオと言えるかどうかわからないわよねえ。でもね、あなた、ペット向けの放送まで実験しているらしいのよ。びっくりしちゃうわねえ。メディアの世界は、あなた、驚きよ、驚きが大切なのよ。びっくりしたなあモウよ。ユリイカよ。わかる、あなた、驚きってユリイカって言うのよ。知らないの?いやだ、教養ないわねえ。恥ずかしいと思わないの?あなた、しわとりしすぎて脳みそのしわまでとっちゃったんじゃないの。アルキメデスはアルキメデスの原理を見つけたとき、そう言って、湯船から飛び出して、街中を走り回ったのよ。スッポンポンでよ、あなた、スッポンポン。どんなのしてたのかしらね。きっと立派よ。折りたたみ傘みたいのよ。あら、ちょっと顔が赤らんじゃうわ。いろんなジャンルの音楽番組や映画情報番組、スポーツ中継専門番組、ニュース、株価、天気、交通情報、外国語の番組もいっぱい始まっちゃうわ。外国語のほうが得意な人も大勢住んでるから、その人たちにも便利になるわ。そしたら、あなた、誰かオカマの番組、始めないかしら。女向けの番組なんか今でもあるけど、こっちの組合のがないわ。そこで、オカマ俳句なんか募集するのよ。「あらあなた 驚いちゃうわ まあいやね」。どうかしら。季語がない?いいのよ、ちょっとくらいおまけしなさい。季語がお通しじゃないのよ。地球温暖化で、季節もおかしくなっちゃってて、あなた、秋に、赤とんぼと蝶々が一緒に飛んでんのよ、てふてふがよ、季語なんかどうにもなんないじゃないのよ、あなた、世も末よねえ。

 障害者に向けた番組だってできちゃう。ラジオは今でも病院や施設、作業所でも聴かれているし、視力の出ない人たちにとって情報収集や娯楽には欠かせないメディア。データ放送が始まれば見えるラジオになって、聴力が今ひとつの人にも楽しんでもらえるかも。フェリックスは精神病院改革に取り組んでた。彼はともかく、ある時期まで、いや今でもいるのかな、ノーマライゼーションを脱施設化と短絡的に捉える傾向があったんです、施設か市井かというような二項対立。でもさ、知的障害者、精神障害者、まあ、そこまで重くない不登校とか引きこもりでも、現実社会に対していろいろときついことがあるじゃない。さしあたり、その人たちが気楽にできるようになってもらえるほうがいいわけで、そのためには施設やサークルつうかグループつうかを有効活用するのも手だよね。やっぱ、そういうところって、ノウハウの蓄積があるから。大切なのはライフ・スタイルじゃない?ねえ。もちろん、アホらしい偏見とか差別とかを解消していくために、世の中の人と接する機会をつくることは不可欠。それは、むしろ、世間にとって必要、な〜んでかっ♪な〜んでかっ♪ていうと、ものの見方を広げるため。同じ方向ばかり向いている社会はたまらんぞ〜。それにさ、誰だって障害を持つことになる可能性だってあるんだよ。社会に対してああいう人たちが居直れるような場所が必要だよ。そんな放送がありゃいいね。

 でもさ、メディアが前衛の役割をする時代はいいもんじゃない?そんなの線形的すぎる。でも、これもメディアか。自己言及性のパラドックス?ハハ。フェリックスの非平衡革命は流動モザイクモデルなんだからさ。二〇世紀初頭、革命における前衛党の意義が説かれているんです。無線もないため、司令部からの連絡手段が限定的だった時代において、前衛が重視されたども、通信手段が発展し、司令部が後方に下がると、むしろ、後方が戦闘の全体像を把握できるだべさ。第二次世界大戦には、後方の重要性が認識され、輸送船や輸送機が標的になっている。さらに、ベトナム戦争では、前線が存在せず、前衛と後方の区別が決定不能になっている。戦闘が非対称になればなるほど、すべてが戦場になる。今、世界はイラクでそれを実感してる。それは軍事的衝突から心理戦への変容を意味します。イラクの都市部で実戦経験を積んだテロリストあるいは聖戦戦士が世界規模で拡散し、爆弾テロを実行する可能性もあるのです。これは余談ですけど、イラクって最も古くから文明が発達していたことは知られてますが、古代メソポタミアの遺跡で発見されたバグダッドの電池は一九世紀の電池とほぼ同じ能力を有しているんですよ。古代人はこの一Vの電池を金メッキに使ったと推測されてるんです。なんかさあ、そんなところにさあ、アメリカとか日本とかさあ、偉そうだよねえ。イラクは、事実上、都市型テロの演習場と化しているんです。最終的には、ソフト・ターゲットを狙ったテロリズムが展開されてます。レジスタンスの活動家は、歴史的に、ゲリラであり、テロリスト。非平衡の革命のため、この点から、今日の活動家は前衛ではなく、ゲリラたらねばならない。それは非平衡的なリポゾーム。散開!

 ああ、早いなあ、もう終わりの時間だ。それじゃ、お名残惜しいけど、これが最後の曲。えー、フェリックスにふさわしく、ラストはスタイル・カウンシル(Style Council)、『シャウト・トゥ・ザ・トップ(Shout To The Top!)』。また、いつか、どこかで。「カオスモダン」だよ。Adieu, la revolution!

 

I was half in mind - I was half in need,

And as the rain came down - I dropped to my knees and prayed

I said "oh Heavenly thing - please cleanse my soul,

I've seen all on offer and I'm not impressed at all".

I was halfway home - I was half insane,

And every shop window I looked in just looked the same

I said send me a sign to save my life

'Cause at this moment in time there is nothing certain in

these day's of mine

 

Y'see it's a frightening thing when it dawns upon you

That I know as much as the day I was born

And though I wasn't asked (I might as well stay)

And promise myself each and every day - that -

 

When you're knocked on your back - an' your life's a flop

And when you're down on the bottom there's nothing else

But to shout to the top - shout!

〈了〉

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